幻覚にカーテンコール
ⅵ 菫色の試供品と冷蔵庫の群棲地 いつの頃だったか、冷蔵庫には怪獣が棲んでいると信じていた。 そいつは、昼間はなんでもないような顔をして野菜室の隅に潜んでいる。 夜になり、家主が寝てしまうと紫色の歯をむき出しにして、うなり声に似た不気味な歌をうたうのだ。 何がきっかけでそんな風に思い込んだのか、私は毎晩ベッドで「かいじゅうが起きる、かいじゅうが起きる」と泣いていた。 今は紫の歯の怪獣なん…
幻覚にカーテンコール
ⅴ 姿なき販売所 「あの、牛乳が届いてなかったんですが」 返答はない。少し音量を上げる。 「ごめんください」 誰かがそばにいる気配すらない。 翻訳機の音量を最大に設定して、半開きになって北北西の風に揺れている鉄扉の向こうへ呼びかける。 「牛乳を、取りに、来ました! 十字路の、角の、診療所の、者です!」 一語ずつ区切って呼びかけた“音”は、風鈴に似た余韻を残して消えた。やっぱり返事は返ってこ…
幻覚にカーテンコール
iv 燐光の香り 扉を開け、その光景を目にした時、私は遠い昔に観たある映画に出てきた、魔女の部屋を思い出した。 洗い立てのシャツのように真っ白で清潔な床、天井。壁の大半は大小様々な淡い水色の引き出しに覆われていて、その一つ一つに濃紺のインクで丁寧に書かれた分類ラベルが貼られていた。 引き出しの並ぶ壁を背にする形で、白いペンキで塗られた古く大きな作業机と濃紺の椅子が置かれている。机上は無数のビ…
幻覚にカーテンコール
iii 柔らかい水 小指の爪ほどに小さく見える、はるか遠くの山から太陽が昇る頃。 インベーダーゲームの電子音のような声で話すおじさんに連れられて、私は「なんきょくじん」と呼ばれる人々の住む街へ到着した。 等間隔で行儀良く並んだ建物はどれも角砂糖そっくりの真っ白な立方体をしていて、角砂糖工場の中へ迷い込んだかのようだった。私はすぐに近くの建物の中へ案内された。 そこは小さな病院らしかった。待…
幻覚にカーテンコール
ii 永久糖度 これが夢ではないことは、制服の袖から出た腕が知っている。 摂氏零度をはるかに下回る空気に晒され、細かな霜が降りてレースのが縫い付けられたようになっているプリーツスカートの裾を見て、寝ている間に汗をかいていた事を知った。 見回すと辺りは真っ暗で、街灯なども見当たらず、オーロラと月明かりを一面の雪が反射して仄かに足下が白く光っているだけだった。 私が思う通り、ここは本当に南極な…
幻覚にカーテンコール
不要ならば捨ててしまって下さい。 私はカーテンの中に居りますから。 私を起こさないで下さい。 そこに私の席はありませんから。 私を番号で呼ばないで下さい。 その音が実像を結ぶことはありませんから。 塩素の匂いとプール熱。 熱冷ましは要りません。 私を囲むそのカーテンを、 摂氏零下四〇度の極光で染め上げて下さい。 オゾン層にはラジオゾンデを浮かべて。 傍らには無菌室の宝石を。…