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3月/秘密とヤバい女の子

日本のヤバい女の子

【3月のヤバい女の子/秘密とヤバい女の子】

■見るなの座敷
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うぐいす女房(見るなの座敷)

一人の男が山の中で迷っていた。歩いても歩いてもどこにもたどり着かず、水も食料もない。もうだめだと思ったとき、突然目の前の草むらが開けた。そこには一軒の立派な屋敷があった。
屋敷の中からとびきりうつくしい女性が顔を出す。彼女は男を気遣い、風呂を沸かし、食事と酒をふるまい、宿を貸してくれた。男はそのまま屋敷に留まり、やがてこの家の婿となった。

穏やかで豊かな暮らしだった。家は裕福で、妻は愛しく、男は幸福だった。
ある日妻はどうしても出かけなければならない用事があるからと男に留守を言いつけた。

「一番奥の、13番目の座敷には決して入ってはいけません。」

男はなんだか暇を持て余し、言われた以外の部屋を見て回ることにした。障子を開けると、部屋ごとにさまざまな風景が広がっていた。室内にもかかわらず風がやさしく吹き、雪がしんしんと降り、果実がみずみずしく香る。
12の座敷を楽しみ、気づくと彼は最後の砦に対峙していた。
いや、いけない。この部屋だけは…。

それはむなしい理性だった。これまでのすばらしい部屋の思い出が彼を唆し、大胆にした。この座敷もきっとこれまでのように、いや、これまで以上に素敵な体験ができるに違いない。少し。ほんの少しなら、別に構いやしないだろう。
はじめは数cm、それから半分ほど、その次に障子は全て開け放たれた。
結論から言うと、最後の座敷にはこれまでに勝るエンタテインメントは用意されていなかった。芽吹きかけた木々がかすかに揺れ、花の予感がそこかしこに満ちている。明るい昼下がりのようだった。他の部屋と同じように、山々の気配が漂っている。
どこかで鳥が鳴いていた。男は少し拍子抜けし、あるいはかすかな落胆さえ感じながら声の聞こえる枝に近づいた。一羽のうぐいすである。小さな鳥は歌いながら言った。

「見るなと言ったのに。見ないと言ったのに。なぜ見たのです」

それは男の妻だった。彼女は数滴の涙を落としてすぐに飛び去った。
ふと気づくと彼はだだ広い草むらに立ち尽くしていた。屋敷は影もない。ようやく後悔の波が押し寄せ、大声で叫ぶ。

「悪かった。戻ってきてくれ。」

遠くの方でほうほうという音がこだましていた。ほう、ほう、法華経。愛した女はそれきり戻ってこなかった。
ただ春を迎える頃になると、何年経ってもあの鳴き声が山の方から聞こえてくるのだった。

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書きはじめて早々に何ですが、この話については「見ないよ!と一度約束したのにそれを気軽に破った精神が最悪」という感想でまとめたいというのが正直なところである。しかしそれではあまりにどうにもならないので、しぶしぶ読み返そうと思います。
一度約束したことを破ってしまったという点で男は相当に分の悪い状況にある。彼はなぜ約束を破ったのか。なぜ見たのか。

日本の民話においては「見るな」というのは女性が多いですね。天人女房然り、鶴の恩返し然り、蛤女房然り、もちろん浦島太郎然りです。
「見る」という行為は、多くの場合、瞼を開けていればそんなに難しいことではない。見る側は「見よう」という意思さえあればたいへんなエネルギーを使わずにそれを叶えられる。視力が機能している範囲に相手がいれば気だるい気持ちでぼんやり眺めることもできる。だから見る側はいつも無自覚だ。
「見るな」と言う理由は、見られる可能性があるからです。(ちなみに、現代社会においても女性はしばしば見られる必要のないときに、見られる必要のない視点から見られることがありますね。こういったときにも見る側は無自覚でいられる。その無邪気さは大抵、見たいと思う気持ちを押さえつけるのは不自然だとか、故意ではなく不可抗力だとか、見るべきでないというのはナンセンスだとかいう論調によって支えられている。つまり見られたくないという気持ちの矮小化によって起きている。)

本当に、心の底から「見られたくない」「知られたくない」と思っているものを暴くということは、どういうことだろう。
「見るなと言われると、人間、却って見たくなるものだ」という説明では全く片付かない。知らんがな。見んなっつっとるやろ。どつきまわすぞ。という反論が可能です。だってほんとうに心の底から「見られたくない」「知られたくない」と思っているのだから。「座敷を開けるな」と言ったら絶対に開けないでほしいし、「桶には附子という猛毒が入っているから近づくな」と言ったら絶対に近づかないでほしいのだ。
見るとか知るとかいうことは一度実行してしまうと二度と取り消せない。秘密を知ってしまったら、知らなかった頃には二度と戻れない。太郎冠者と次郎冠者がいくら機転を利かせて舐めつくした水飴をごまかそうとしても、主が裏切られたという事実は変わらないのです。

では、見た罰はどのように下されるのだろう。
物語のいくつかのパターンには、座敷に侵入した男がうぐいすの卵を割ってしまうというストーリーもある。子供まで殺してしまっているのだから、これはもううっかりでは済まされない。それでも男は地獄の業火で焼かれたり舌を抜かれたりしないし、死にもしない。これは他の民話に比べるとずいぶん罰が軽いように思えます。
うぐいすは自分と夫の関係を断ち切る時に、夫の存在ではなく屋敷を消滅させた。即ち、相手に危害を加えるのではなく、ただ自分の存在を消すことで対応した。私はふしぎに思いました。屋敷ごと消え去るという方法は既に「約束を反故にされた」という貸しを一つ手札に持っているうぐいす側の負担が大きすぎるのではないか。巨大な建物を出したり消したりできるのだから、うぐいすは自分の力で男に罰を与えられたはずです。だけど彼女は攻撃も防御もしなかった。ただ試合そのものを消滅させてしまった。

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子供の頃にうぐいすの絵本を初めて読んで、私は男のことが理解できないように思いました。
男はうぐいすが飛び去った後、なお彼女に戻ってきてくれと言っている。彼の恋しい気持ちは続いている。見られたくないというものをずかずか見ておいて、完全に絶望させておいて、「戻ってきてくれ」というのはどういう心情だろう?戻ってきてくれると思っているのだろうか。そして、戻ってきたとして、完全に許して心を開いてくれるイメージが彼には湧くのだろうか。
男は、「うっかり」見た。軽い気持ちで見た。枝分かれしたバリエーションの中で、部屋は3とか、4とか、12とか、複数で登場する。たくさんあったから、その一つがそんなに重要だなんて思わなかったのかもしれない。どの部屋だろうと他人から見れば大差ないのかもしれない。だけど全然違う。そこだけはだめ。絶対に許さない。

ここまでめちゃくちゃに悪口を言ってきた男について、もう一度考えて見ようと思う。
彼は確かに、一度した約束を気軽に破るような嘘つきである。その罪に対してどこまでも無頓着な人間である。とんでもないやつである。(私ならボコボコにするだろう。)
しかしこの物語は、彼の立場から見ると「真理を暴く」というイベントを経た成長のストーリーかもしれない。

もしも座敷を覗かなければ、彼はずっとここで暮らせたろう。ここは元から草むらだった。屋敷はうぐいすの力によって出現したものである。彼は幸福だったが、それは草むらの中の幸福である。それを良いとすることも悪いとすることもできるだろう。でも、とにかくそれは草の上にあった。
例えば、浦島太郎はずっと海底で暮らすのが幸福だったろうか。男はその気にさえなれば、騙されていたとも、ハメられていたとも、すんでのところで助かったとも主張できる状況にある。お土産に煙の出る行李を渡されないとも限らないのだ。
では、そこに彼女の悪意はあったのか。彼女はなぜ男を屋敷に招き入れたのだろう。

私は、最大の不運はお互いのことを「もっと知りたい」と思ってしまったことではないかと思います。
彼らはお互いに憎からず思い合っていた。つまり、そこそこ良い関係を築く気があった。そしてもっと親密になり、信頼しあい、お互いのことより深く知ることにやぶさかでなかった。
それは少しも悪いことではなく、喜びにあふれ、晴れがましいことです。ただ、より深く知ったことによって10あったものが100になり、100になったせいで0になるということは、たまに私たちの暮らしの中でも起こりますね。

もしほんとうに座敷を見られることを回避するなら、男を完璧にコントロールする手段はあったはずだ。男も一緒に連れて出かけて一人で留守番させなければ良いし、不思議な力で眠らせるということだってできるかもしれない。多少乱暴だけど縄でぐるぐる巻きに縛っておくとか、いっそ用事を出かけずに済ませるとか、方法は全くないわけではない。
彼女はこの男が伴侶に相応しい人物かどうかを試そうとしたのではないか。約束を守れる人かどうか知りたい。
――彼なら、きっと守ってくれるのではないか。
男はもちろん、一度は躊躇した。だけど「気になるな」という気持ちと「少しならいいだろう」という気持ちが彼を動かした。彼女のこと、この不思議な家のこと、ミステリアスな魅力を知りたかった。そしてそれはさほど大きな問題ではないように思えた。
――彼女なら、許してくれるのではないか。

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ふたりはお互いの秘密を知ってしまった。
女の秘密は人間ではなくうぐいすであること。男の秘密は約束も守れないような男であること。

結果的に、ふたりはより真理に近づいたと言える。
男はこのままだと竜宮城よろしく何もない原っぱに立ち尽くしたままお屋敷の夢を見続けて絶命したかもしれないし(何も知らずに迎える絶命は彼にとってある種の幸福だったかもしれないが)、うぐいすはいつかどこかで軽やかに自分を裏切る者をもっと愛してしまわずに済んだのだから。
元々合わないふたりだったのだ。合わないのなら、袂を分かつしかないのだ。マッチングの不具合が早めに分かってラッキーだったね、ということです。

と、

まあ、

それはそうなんですけど、

でも、やっぱり、そうは言っても、

一緒にいられたら、それはきっと素晴らしかったね。
うぐいすは男を傷つけなかった。ただ「ああ」と思って去ってゆきました。彼女が二度と戻らないことを悟って、男も「ああ」と思って山を降りた。ふたりには今迎えている結末以外のビジョンも簡単に想像できたけれど、それはもたらされなかった。男が原因かもしれないし、うぐいすのせいかもしれないし、お互いのせいかも。それとも、誰のせいでもないのかもしれません。いや、やっぱり、約束を破ったのが最もいけなかったのかもしれない。

ふたりはぜんたいどうすればよかったのだろう。
見るというのは無自覚かもしれないけれど、とびきり能動的な行為です。男は見るように仕向けられたのではない。自分で見ると決めて見たのだ。そこに迂闊な驚きがなければ、あるいは、と私は思います。
「見ないでね」「これを見たら、もう一緒にいられないかもしれないよ」。そう警告された時に「うん、見ないよ」と承諾せず、

いいや、見る!見たい!見た上で、それでも一緒にいたいのだ!!!

と言えたら、どんなによかったでしょう。
どんなことがあっても大丈夫だから見せてくれ!と大見得を切って、それで勢いよく扉を開ける。見て、よく考えて、それから、やっぱり、真実を受け入れられないかもしれない。それは開けてみないと分からない。だってまだ見ていないのだから。

どんなことがあっても大丈夫と、あなた言ったじゃない。うん、言ったね。確かに言った。どんな秘密でも大丈夫と言った。そうしてやっぱりだめだった。ごめんね。どんなことがあっても大丈夫と思っていたんだ。ほんとうに。
それは最悪で、最悪で、最悪だけど、過失のようにするすると全てを失くしてしまうよりは幾分ましかもしれません。何が良かったのかはもう、絶対に、分からないことですね。それでもふたりは生きている。座敷での楽しく温かい暮らしはサステナブルな真理ではなかったのかもしれない。それでも私たちは生きて覚えている。

うぐいすは別名、春告鳥と呼ばれる。春はまたやってきますね。
遠くであなたがうつくしく鳴いているのが聞こえる。もう会うことはないけれど、私たちは、確かに、この場所にいた。

はらだ 有彩

はらだ 有彩

はらだ有彩(はりー)

11月16日生まれ、関西出身。
テキスト、テキスタイル、イラストレーションを作るテキストレーターです。

mon・you・moyoというブランドでデモニッシュな女の子のために制作しています。
mon・you・moyoとは色々な国の言葉をパッチワークにしたもので、「もんようもよう」と読みます。
意味は(わたしのあなた、そのたましい)です。
デモニッシュな女の子たち、かわいくつよいその涙をどうか拭かせてほしい。

Reviewed by
柳本 々々

カウンセラーは交際相手についての基本原則を与えてくれた。かんたんでおぼえやすい原則だ。先頭の文字をつなげると「safe【安全】」になる。心がけておくことは四つ。ひとつめはもっとも重要だ。
秘密【Secret】 この交際は誰に知られてもいいものなのか? 秘密にしておかなければならない関係ならば、あなたにふさわしくない。
虐待【Abusive】 この交際はあなたやあなたの子どもに害を与え、あなたの価値を下げるだろうか?
感情【Feeling】 あなたはつらい感情から逃れるために交際を続けているのだろうか? なにかをまぎらわせるための交際なのか?
空虚【Empty】 この交際は思いやりや責任をともなわない空虚なものか?
  (レジーナ・ブレット『人生は、意外とすてき』)

   *

今回のはりーさんのエッセイは、〈秘密〉と「うぐいす女房」(「見るな」のタブー)をめぐる話でした。

有名なのは「鶴の恩返し」ですよね。「見るな」と言われたのに男は見てしまった。

どうして「見るな」と女から言われたのに男はそれを破ってしまったか。

《私は、最大の不運はお互いのことを「もっと知りたい」と思ってしまったことではないかと思います。》

とはりーさんは書かれていました。実はこれって昔話のなかだけでなく、今わたしたちが日常的に使用しているネットメディアそのものをめぐる寓話でもあると思うんですね。

相手のことを好きになるとどんどん相手のことが知りたくなってしまいますよね。相手とふだん話して手をつないでいるだけじゃ満足いかなくなって、相手が書いているメールもブログもつぶやきも知りたい見たいと思い始める。LINE、ブログ、ツイッター、メールなどのメディアを通して。

でも、相手のことを好きで知りたいと思いながらも、どこまで見ていいのかというライン=境界線が必ず出てくる。つまり、じぶんで「見るな」のラインをつくらなければいけないわけです(その意味でわたしたちは誰しもが「うぐいす女房」の渦中です)。知りすぎて今の関係をこわしたくないという恐怖もどこかで出てくる。でも、知りたいし、もっと、

見たい。

でも「もっと知りたい」と思うことははりーさんが書かれていたようにしばしばお互いの〈不運〉をもたらします。それはお互いの関係を間違った方向に導く。

なぜ、でしょうか。

それはおそらく「見るな」のタブーを破って相手の情報を〈見た〉ときにそのタブーを破ってまで見たがゆえに相手の言葉を〈過剰解釈〉するからではないかと思うんですね。つまり、《なんでもない情報》が《とっておきの情報》になってしまうわけです。「見るな」というおまじないのせいで。破るという快楽のステップアップのせいで。

しかもきちんと解釈するような情報をネットメディアは渡してくれるわけではないですよね。ツイッターやブログってあくまでささやかな断片であって、しかも的確な事実だけで書かれてるわけじゃない。それらは断片にしかすぎません。でも断片だからこそ、いろいろな物語をつくれる。ほんとうは彼女/彼は《こう》思っていたんだ、と。

そして、なおいっそう、好きな相手だと過剰解釈してしまう。好きっていうのはいつも《なぞめいている》から。

さいきん、LINEと不倫をめぐるニュースが話題になっていましたが、実は、メディアと不倫の関係って根強いんですね。なんでかっていうと、不倫っていかに相手とタイミングを合わせて待ち合わせるかが大事で、その《待ち合わせ》や《連絡》のためにメディアの力がいかんなく発揮されるからです。ですから、《不倫》っていうのはいつでも《メディア論》そのものなんです。《不倫》はドラマ作りには欠かせない物語要素ですが(映画や文学で名作と呼ばれるものはほとんど《不倫》が軸になっています。漱石もそうだし、『マディソン郡の橋』もそうです)、こんどドラマのなかで《不倫》が出てきたらどんなメディアがどのように駆使されているかをみてみると面白いと思います。

で、《不倫》ってメディアと親和性が強いためにこの「見るな」のタブーが必ず同時に出てくるものでもあるんですね。しかも「見」てしまったあとは必ず《解釈の物語》が始まります。《あなたはわたしのことがやっぱり好きだ/好きじゃない》の物語をメディアをとおしてえんえんと演じるのが《不倫》の一側面になっています。たとえば漱石の『それから』は〈不倫〉をめぐる小説だけれど、二人の関係には〈それから〉が用意されてありません。でも主人公は〈それから〉をどこかで暴力的に求めていく。その結果、電車に飛び乗って、あたまがあぶない状態になっていきます。

でもそれは《不倫》じゃなくでも、《恋愛》でも日々起こっていることです。恋愛はある意味でメディアによって構成されていますよね。日々のメールや手紙やつぶやきや電話によって。

「見るな」のタブーをめぐる物語はいまの時代でも《有効》だとおもいます。というよりも『古事記』でイザナミがイザナギに「見るな」といったのに見ちゃったように、おそらく《恋愛》の根っこにはいつもこの「見るな」のタブーがあるんだと思います。

相手のことを〈知りやすい〉メディアが発達にするにつれ、わたしたちの「見るな」をめぐる「うぐいす女房」度はどんどん高まっていくでしょう。

障子いちまい、クリックひとつへだてて、だいすきなあなたが機(はた)を折っている音がきこえる。

あけたい見たいあけられない見たくない知りたい知りたくないもっと見たいもっと見たくないもっと好きになりたいもっと嫌いになりたいもっとこわれたい。

「見ないほうがいい」ことはたくさんある。大好きな相手が「うぐいす」だということはほんとうは知らないほうがいいかもしれない。

でも、はりーさんの語る女の子たちがしばしばそうであったように、逆に、だいすきなあいてが「うぐいす」であることをまるごとひきうけて、いっしょに巻き込まれていくことも、実は、一回かぎりの人生ではありなのかもしれない。ふっとそんなふうに思ったりもするんです。ひとにはそういう強さだってあるんだから。

《あえて》障子をあけること。「うぐいす女房」の物語を書き換えてしまうこと。うぐいす《だから》別れるのではなく、うぐいす《なので》共に生きること。

ひとは時に、《このひとしかいない》と思った相手といっしょにとことん巻き込まれていく強さだってあるのです。たぶん。

   *

──ねえ、私はもう、救世主願望は持たないことにしている。もし私がそういったとしたら、彼女はきっと、一瞬体の動きの全てを止めて私を見つめるだろう。それからこういうに違いなかった。──そうね、それは賢いわ。けれど人間にはどこまでも巻き込まれていこう、と意志する権利もあるのよ。
  (梨木香歩『春になったら苺を摘みに』)

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