【11月のヤバい女の子/下ネタとヤバい女の子】
●鬼が笑う
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《鬼が笑う》
峠を嫁入りの籠が行く。裕福な家庭の娘だった。人々がおめでたい行列を作りぞろぞろと歩いていく。と、そこへさっと黒い雲が現れ、花嫁をさらっていってしまった。
目の前で子供を拐かされた母親は半狂乱になり、娘を探す旅に出る。歩き回っているうちにすっかり日が暮れたので、宿を借りようと山の中のお堂を訪ねた。
古いお堂には庵女さま(尼)が住んでいて、疲れ果てた母親をやさしくもてなしてくれた。庵女さまは娘の居場所を知っているという。
娘は川の向こうの鬼の家へ連れて行かれその妻にされていた。二匹の番犬が橋を守っている。母親は犬が眠っている隙に橋を渡り、ついに捕らわれの娘を発見した。
泣いて再会を喜ぶ母娘だったがそうのんびりしてはいられない。もうすぐ出かけていた鬼が帰ってくる時間である。
娘は母に急いで夕飯を食べさせ、櫃の中に匿った。櫃を閉じるのとほぼ同時に鬼が家の扉を開けた。
「おい、何だか人間臭いぞ。それに、家の中にいる人間の数だけ咲く庭の花がひとつ増えている。誰か来ただろう」
鬼は恐ろしい形相で問い詰める。絶対に見つかってはならない。娘は嘘をついた。
「私が子供を身ごもったから花が増えたのだと思う」
鬼はすっかり騙されて大喜びし、家来を集めて宴会を開き、さらに興奮して橋の番犬を自ら殺してしまう。
宴は深夜まで続き、いつしか鬼たちは酔っ払って寝息を立て始めた。今がチャンスだ。母娘は一目散に逃げ出した。そこへ山で助けてくれた庵女さまが再び現れ、橋を渡らずに舟で逃げろと助言する。
舟を漕ぎ出すと同時に、目を覚まし異変に気づいた鬼の怒鳴り声が響き渡った。追いかけてきた鬼たちはいっせいに川の水を飲み始める。水かさがどんどん減り、みるみるうちに母娘と庵女さまの乗った舟は鬼の待ち構える岸へ吸い寄せられていく。
このままでは捕まって殺される。万事休すと思ったとき、庵女さまが言った。
「あなたたち、着物を捲って、大事なところを鬼に見せてやりなさい」
三人は勢いよく着物をはだけ、鬼に尻を向けた。
しばしの沈黙。次の瞬間、鬼たちは噴出し、げらげらと笑い転げた。笑った拍子に口から水が漏れ、川の水位が戻っていく。こうして母娘は安全な岸まで辿り着くことができた。
二人を導いた庵女さまは実は石の塔で、自分の隣に毎年一本ずつ新しい石塔を立ててくれるよう告げてどこかへ消えていった。母娘はそれから欠かさず石塔を建て、元のように穏やかに暮したという。
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多分この物語を読んだ全員が抱くであろう疑問が私の中にも芽生えた。
なぜ、なぜ尻なんだ。
《三枚のお札》のように必殺アイテムで撃退したとか、お経を唱えて助かった、というようなことであれば冒険としても教訓としても納得できようものだが、尻とはいったいどういうことだ。ちょっと唐突すぎるのではないか。
これで何の効き目もなかったら、尻を出した状態で死んでいたところだ。あまりにも浮かばれない。
鬼は彼女らの姿を見て爆笑した。笑ったというからには、ここでは尻を出すことはギャグとして成立しているのであり、面白いことなのだろう。
ギャグだという前提で見返すと、このノリにはどうにも既視感がある。コロコロコミックやコミックボンボン的笑い、クレヨンしんちゃん的笑い、いわゆる下ネタである。
下ネタはなぜ「面白い」のだろう。下ネタの「下」は下半身の「下」、下品の「下」だ。大きく分けると「排泄に関係するもの」と「性に関係するもの」の二つに分類することができる。
《鬼が笑う》には様々な解釈があるが、ここでは少々乱暴に、性に関係する下ネタという方向に限って観察してみようと思う。
下ネタは実に多くの要素をはらんでいる。誰かが下ネタを話す時、その場に居合わせた人には特定の民間的作法が期待される。
ある種の愛嬌、間抜けさ、丸腰っぽい情けなさ、許容されながら禁止されている土壌、語感と勢い、「下」品であることで聞き手より下に位置すると思わせる侮り、誰かが簡単に自分に置き換えて想像できるという漠然としたプレッシャー、プリミティブな言葉選びによってもたらされる真理に触れているような感覚、決して深刻なトーンではないという体裁、それらが抱き合わせになり下ネタの鮮度をはじけさせている。鮮度のあるものは話し手と聞き手にテンポを要求する。下ネタにはタイミングを逃すと腐ってしまうという暗黙の圧力が、期待される正解のアクションがある。
例えば、――これは2016年にはちょっと古典的すぎる例かもしれませんが――女性は下ネタに対する態度をしばしば求められることがありますね。寛容でいてほしい。嫌がりすぎると場が白けるからやめてほしい、でも率先して乗ってくると引いてしまうからやめてほしい。などなど。
他者に正解のアクションを求めるということは、思考停止してそのアクションを取るよう望むということ、本人の取りたいアクションを自由に取らないよう望むということだ。
(この鬼だってほんとうは白けていたのかもしれない。突然尻を見せられても何ひとつ面白くなかったかもしれない。だけど周囲の空気がマジレスをさせなかった。新喜劇のお約束のように、彼らは水を吐き続けた。)
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そもそも下品とは何だろう。「尻(を含む性器)を出してみせる」というのは下品なことだろうか。
彼女らは何のために尻を出したのか?それは完全に生きるためだ。迫り来る鬼から逃げ切って、家に帰り、元の生活に戻るため。死ぬか生きるかである。今にも捕まって殺されるかもしれない、ぎりぎりのところで尻を出しているのだ。その心持ちは決して楽しいものではないだろう。
一方鬼は純粋に「おかしな、面白いこと」としてこれを見ている。大抵の場合、下ネタを言う方がふざけていて、言われた方が嫌がるというのがポピュラーな構図だろう。だけどここでは間逆である。
私は記憶の中の下ネタっぽいものをできるだけ思い出すことにした。
昔話には、エマージェンシーにおいて尻(を含む性器)を露出する女性の物語が多くある。
例えば、日本神話に登場するアマノウズメは、天照大神が天岩戸に隠れて世界中が暗闇に覆われたとき、乳房と下半身を見せて踊ることで周囲の神々を笑わせ、大騒ぎして天照大神に岩戸を開けさせた。
沖縄の民話《鬼餅》では、鬼になってしまった実の兄に対して妹が着物の裾を捲って性器を見せる。兄が驚いて「お前のひげの生えている口は一体何だ?」と聞くと妹は上の口は食事をする口であり、下の口は鬼を噛み殺す口だと答える。兄は恐ろしさのあまり死んでしまい、村には平和が戻る。
東北を中心に伝わる民話《屁こき嫁》では激しいおならが原因で嫁ぎ先を追い出されそうになった新妻が、邪魔者とされていたおならを行く先々で人の役に立てて活路を見出す(おならで柿の実を収穫する、合戦場で敵の兵を吹き飛ばす、など)。
またノンフィクションでは、2015年1月にパリ メンズコレクションで発表されたリック・オウエンスの2015年秋冬のファッションが記憶に新しい。
「――軍事潜水艦を舞台としたフランスの白黒映画がインスピレーションの源。深海という極度のプレッシャーに囲まれた状況で、理性を保とうとする様子が、今回のテーマ“COMPRESSHION(圧縮)”に繋がったのかもしれない。(FASHION PRESSより引用)」と形容このされたコレクションでは、鼠蹊部に穴を開けた洋服がたびたび登場する。モデルの男性たちがランウェイを歩くたび、洋服の穴から性器が見え隠れする。モザイクをかけられた写真が面白おかしく出回り、YouTubeでは「えっ今の何!?何か見えなかった!?」と動揺するフロントロウの様子が流れる。インターネットにはデザイナーのリック・オウエンスをもじって「ディック・オウエンス」と呼ぶギャグが散見された。
これらは全て笑いを伴っているが、それぞれ異なった目的のもと、手段として用いられている。
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鬼が笑うといえば、「来年のことを言うと鬼が笑う」ということわざがありますね。
このことわざの由来も様々だが、「鬼は人間の寿命を知っていて、明日にも死んでしまうような短い命がずっと先のことを心配する様子がおかしくて笑う」というパターンと「角や歯を失った鬼が『来年になったらまた生えてくるよ』と言われて安心して笑う」というパターンが多く挙げられる。
来年の話をすることと尻(を含む性器)を露出することの共通点は、「突拍子もない」ということだ。鬼は愚かな存在である人間の、突拍子もない行動を見て笑っている。
笑う人と笑われる人がいるとき、二人の関係はどのようなものだろう。笑う側が関係性をコントロールする高貴な存在で、笑われる側が下賎な立場なのだろうか。実際にはそうではないかもしれない。
劇中、鬼たちは母娘を殺す気で追いかけてきた。恐ろしい声が響き、シーンは緊迫していた。しかし「笑う」という描写によって鬼は人間のように親近感の湧く存在となり、攻撃性を失い、どこかユーモラスな雰囲気が漂ってしまう。彼女らは下ネタによって有無を言わさず感情を動かされてしまう状況を作り、自分を間抜けにみせることで怒りに満ちた空気を力技で帳消しにした。鬼は自分の意思に反して笑いをもたらされ力を失った。その瞬間、鬼はコントロールする側からされる側に変わった。
2016年も残すところ二ヶ月。ことわざに従うなら、2017年の話をすると鬼が笑うという。だけどこれからのことを話さずにいられるだろうか。新しいスケジュールだってもう買ってしまった。
誰かを怒らせるための方法として「尻を叩く」ジェスチャーや「キス・マイ・アスホール」というスラングがあるが、尻を見せて他者を怒らせることよりも笑わせること、そうして逞しく生き延びることの方がずっと難しい。だけどここに素晴らしい予定をびっしり書き込むためなら、どんな風に笑われてもいいよ。真顔でバラエティ番組を見ながら、無垢なたましいで来年の計画を立てよう。