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3F/長期滞在者&more

冬季ビタミンD補完計画。

長期滞在者

10月最後の週末、ヨーロッパが冬時間になった。
日本との時差は7時間から8時間に戻った。
毎年のことなのだけど、ついに来たか、と言う感じ。
ここから約半年はどれだけ多く陽の光を浴びられるか、
ビタミンDを摂取し続けられるか、
体調を管理しながら気力を保持し続けられるか、
心楽しくいられるようなことを考え続けられるか。
ここ数年は冬時間に戻る度にそういったことを
工夫し続けるのが恒例になっている。

この夏、岡山に長く滞在した時に、
友人に誘われてサルサのイベントに参加した。
もともとサルサ音楽は良く聞いていたのだけど、
誰かと向き合って踊るダンスは苦手で
サルサもずっと避けていた。
なので、その時もかなり尻込みしていたのだけど、
ステップを教わりながら、ふと思うところがあり、
ちょっとサルサを続けてみようと思い始めた。

基本になるサルサのステップはとてもシンプルだ。
オン1かオン2と言う基本の2スタイルがあるが、
それにしても、男側が左足を前に出して始めるか、
後ろに出して始めるかどちらかの違いがあるだけで、
あとは基本的にずっと同じステップを踏み続け、
その上で色々なバリエーションを生み出していく。
ぼくはこのことを長いことつまらないことだと捉えていたんだけど、
今回、ふと、いや、こっちの方が深まりやすいな、と思った。
簡単にいえば、日本の稽古事の「型」に繋がるような
アプローチが可能なんじゃないかと感じた。
(ちなみに「こっちの方」に対する「あっち」と言うのは、
ぼくが長く関わってきたいわゆるコンテンポラリーダンスの方。)

とは言いながら、「型」の稽古なんてやったことはほとんどないのだけど、
まあなんとなくそう感じて、ああそうだよな、
きっとそうだから、ちょっとハマりこんでみよう、
と思うきっかけになったと言うことが大事であって、
要はそれ系の感じのことを今自分が求めているらしいと言うことを感知した瞬間があり、
その感じを「サルサ」と言う枠で捕獲することができたことが一番大事なことで、
実際にサルサのステップのシンプルさと
能や歌舞伎の「型」に共通点があるかどうかなんか
実はどうでもいいのだから、まあそれでいいのだ。

あと、上記のサルサイベントに参加する直前に
実は坐骨神経痛が再発していて、
かなり難儀していたのだけど、
無理を押して踊っているうちに、なぜか痛みが軽減され、
翌日、しばらく通っていた鍼灸医に診てもらったら
ものすごくよくなってますけど、どうしたんですか?
と不思議がられたと言う経緯もあったりして、
これはなんと言うか、ダンスとの接点を保ちながら、
健康を維持し、さらにはあの徹底的に陽気だけど
超絶技巧の演奏や複雑なラテン音楽に身も脳も揺さぶられることで
この時期湿りがちになるシナプスの発火具合も向上するだろうし、
パーティーに参加していればヒキコモリ防止にもなるだろうし、
なんともパーフェクトな冬季鬱対策なんじゃないかと
考え始めたと言うのもサルサに割と真面目に
取り組み始めた理由でもある。

冬季鬱対策といえば、今年は映画推しで行こうとも思っていて、
久しぶりに映画館通いを始めてみたのだけど、
映画に詳しいサルサ友のおかげもあって、
最近見た映画はどれも当たりだった。

チベットの風景が目に染みる『ジンパ』。
レオ・ディカプリオの超絶演技が圧巻だった
『ワンスアポンアタイムインハリウッド』。
ホアキン・フェニックスの超々絶々演技の『ジョーカー』。
今年のカンヌのパルム・ドール『パラサイト』。
70年台のアレサ・フランクリンのゴスペルコンサートの
映像を再編集した『アメイジング・グレイス』。

『ジョーカー』と『パラサイト』はどちらも
格差社会の中での階層間の闘争がそれぞれの内容の重要な部分を占めていて
その表現の仕方の違いを比べてみるのは面白いと思う。
というか、ホアキン・フェニックスがすごすぎる。
あれに対抗できるのは田中泯さんくらいじゃないかと思う。

サルサも映画も楽しいのだけど、
実は今、新しい陶芸用の工房を準備していて、
ベルギーらしく色々面倒で時間がかかることがあって
気が重いこともあるにはあるのだけど、
やはり自分の自由にできる空間(結構広い)が
持てるっていうのはすごく楽しい。
あれこれ全部完了するにはあと2、3ヶ月(!)かかるらしいのだけど、
まあのんびり楽しみながら進めることにしている。

それにしても寒くなってきた。
今週半ばには最低気温が0度近くにまで下がるらしい。
鍋の準備でもするか…

ひだま こーし

ひだま こーし

岡山市出身。ブリュッセルに在住カレコレ24年。
ふと気がついたらやきもの屋になってたw

Reviewed by
カマウチヒデキ

本当の自由を得るために我々は定型を必要とした、と言って五七五七七の檻に身を投じた詩人がその檻を揺さぶるような詩を作って朽落寸前だった定型詩の世界に新しい息を吹き込んだ、とか。
破天荒と呼ばれるピアニストが巨石で固めた大伽藍と思われていた古典曲の世界でむしろその音楽が生まれた当時の躍動を発見したりとか。
「型」を利用して深まること、というのはあるんだろうなぁ。
型、ということではガチガチの型である、書道における古典の臨書(そのとおりに真似て書くこと)。平安時代のかな文字の臨書なんて、ただの真似事ではなく、千年前の人の体の動きをトレースすることなのである。。。なんて書くとすごい博識な人っぽいけど、正直漫画(河合克敏『とめはねっ!』)から学びました。
型はそのジャンルにおける叡智の化石。何をそこから読むか、なのでしょうね。

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