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3F/長期滞在者&more

「反解釈」から「反換算」へ。

長期滞在者

季節の変わり目だからだろうか、ここ数日気分が冴えない。
自律神経に問題でもあるのか、体調も変な感じで、
風邪の症状はないのだけど、昼間でも足先が冷えていて、
今日あたりなんかは肩の辺りから体の芯に向けて
冷気のようなものが滑り込んでくるような感じが続いた。
なのでせっかく久しぶりに天気が良くなったものの、
その冷気に勝てず、今日は布団に潜り込んで午後までをすごした。

で、開いてみた本からの引用。

「現代はまさしくそういう時代、解釈の試みが主として反動的、
抑圧的に作用する時代である。(中略)
芸術に対する解釈の横行が私たちの感受性を毒している。(中略)
芸術に対して知性が恨みを果たそうという試みが、すなわち解釈なのだ。
そればかりではない。解釈とは世界に対する知性の復讐である。
解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。
そしてその目的は、様々な「意味」によって成り立つ影の世界を打ち立てることだ。
世界そのものをこの世界に変ずることだ。
(「この世界」だと!あたかもほかにも世界があるかのように。)」 

                     スーザン・ソンタグ『反解釈』

これが書かれてから50年経ち、世界はすっかり萎縮してしまった。
そして、60年代にスーザン・ソンタグが危惧した「解釈による意味」で
でっち上げられた世界などよりもさらに萎縮してしまった。
そして現代は全てが(貨幣)価値に換算される。
解釈に変わって「換算」が重要になった。
「解釈」という理性による復讐の方法は「換算」のための
理由づけくらいの意味しか持たなくなっている。
今やアートが当然のように投機対象となり、
それぞれの作品に対する解釈と意味づけが高速で行われ、
同時に値付けされていく。
(唐突に場違いなような話を挿入するが、
世の中でこの「換算」の重要性が高まった時期がわかる好例が
『ドラゴンボール』に登場する「スカウター」だと思っている。
ちょうど1990年くらいだったはず。戦闘力を換算した数字は
それを計測したものに相手の戦士としての価値を教える。
数字が高ければ構え、怯えるし、低ければ余裕の態度で見下す。
その時点でほぼ勝負は決しているようなものだ。
「天下一武闘会」の頃のようにどんな流派で学んだかとかどんな技を使うか
などの情報は実質上この時点でもう必要なくなってしまった。)

ソンタグが危惧したことは恐ろしいほど的確だった。
理性はそのもっとも使い慣れた言語という道具だけを
持ってしては決してその存在の核に届くことができない
「芸術」に対しての歴史的な恨み辛みを
「解釈する」という名目で正当化しながら
(つまりは暗に負けを認めながら、だからこそ)、
理不尽な「復讐」行為に変換させた。
そしてそれは世界のもっともセンシティブな部分、
あからさまにしまってはその効力や美が失われてしまうような
魔術的な部分を全て言葉に変換することを要求し始めた。
それはあたかも女性性の神秘を知りたいがために、
纏われた衣を剥ぎ取り、
隠されていた全てを曝け出すように要求することに他ならなない。
そして、そこで見えるものがあるとして、
その「神秘」の大半はそこから逃げてしまっていることに多くの場合気づかない。
それは、その時点で「復讐」自体が目的とかしてしまっているからだ。
そういった極めて独りよがりで無粋な視姦の類であるとも言える、
そして、この解釈、意味付け、価値付け、値付けの流れは、
アートの市場だけではなく、芸術制作の場にも蔓延してしまっているようだ。

90年代(!)から、芸術活動に対する助成金が世界中で盛んになり、
それを得て作品制作をすることが今ではとても普通のことになった。
そのせいで、助成金を申請するための企画書を
アーティストが書き続けることが常態化した。
そしてそれは今では、作品を作り始めるにあたって、
ほとんど義務のようなプロセスのようになってしまっている。
しかし、まだ作り始めてもいない作品についてその概要を書く、
というか書かされるのがどういうことなのか、そのこと自体、
このような文脈において一考に値することだと思っている。
そしてその辺りから見つけ出されるべきアートの方法もあるだろう。
さらには、助成金のあり方も別のありようがあっても良いだろう。
何か、いろんなものの様式や形式が画一化されているようで、
結局、それがつまらないと思っているだけなのだろうな、おれは。

ともあれ、ここから「反解釈」ならぬ「反換算」をどのようにコミュニケートするべきなのか、
スーザン・ソンタグなら、どんな文章を書いただろうか、
などと考えているおれは、ずるいな。やっぱり。

さて、先にちょっと『ドラゴンボール』について言及したけど、
少年漫画(特にジャンプ系)の「力」に関する表現が、
なにやらその時代ごとの経済の様態と関連しているんじゃないだろうか、
という直感から、次回は
「ギャラクティカマグナムでワンパンマンをぶっ飛ばすことは可能か?」
というテーマで書いてみようかなと、今は思っているけど、
どうなるかわかりません。

では。

ひだま こーし

ひだま こーし

岡山市出身。ブリュッセルに在住カレコレ24年。
ふと気がついたらやきもの屋になってたw

Reviewed by
カマウチヒデキ

最初に引用されるスーザン・ソンタグの『反解釈』からの言葉に、普通に感動しました。
写真論の本しか読んだことなかったし。読もうかな、スーザン・ソンタグ。

アート界全般のことについては僕は疎いけれど、写真の世界のことだけに限ってみても、極端な話、英文ステートメントの書き方講座みたいなのが普通に重宝されていたり、なんか本末転倒だろう、とは常々思っています。

知性の、というより、「言葉」による復讐がすでに完遂している感。
言葉にならないものを作っているのだ、という、いわば当たり前のことが「言い訳」にしか聞こえない世界。
まぁ、言葉で表現できないものを作っているのだと豪語する人間の大半が、すでに言葉にどっぷり絡めとられたものを作っていて気がつかないのだから、まずはそこからという難しい話ではあるけれども。

復讐はもうすでに完遂されているような錯覚を覚えるけれど、いやいや、まだまだ埋もれない火はあると思いますよ。
そんなつまらない世界に報いる矢をアートという。はず。

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