【2月のヤバい女の子/執着とヤバい女の子】
●橋立小女郎
―――――
《橋立小女郎》
天橋立の近くに一匹の狐が住みついていた。頭が良く、意地が悪く、毎日のように通りかかった旅人や漁師を騙すので、皆手を焼いていた。
素行の悪さを隠すように可愛らしい娘に化けて現れる狐をいつしか人々は「橋立小女郎」と呼ぶようになった。
ある日、一人の漁師が浜で舟を出そうとしていると、松林から突然見たことのない娘が現れ、一緒に乗せてくれと言う。
男は「ははあ、こいつは例の狐だな」と気づいたが、騙されたふりをして乗せてやった。
こっそり見張っていると、すっかり油断した娘が積荷の大根を喰い散らかし始める。すかさず捕まえて縛りあげる。
身動きの取れないように押さえつけられた少女はしくしくと泣き、縄がきつくて痛いと訴えかける。漁師は仕方なく解いてやり、代わりに魚捕りの籠に彼女を押し込めて船着場へ戻ろうとした。
しかし漕いでも漕いでも舟が進まない。狐の仕業であるのは明らかである。優しくしてやったのに、調子に乗りやがったな。
怒り狂った漁師は「狐汁にしてくれる」と籠を火にくべ、小女郎を丸焼きにしてしまった。炎の中で娘の白い腕が焦げていく。同時に、舟が何事もなかったかのように動き出す。
岸へ帰りついた漁師は仲間に今日の武勇伝を話して聞かせる。これでもうあの憎らしい狐に馬鹿にされることもあるまい。
退治の証拠を見せようと男が籠をひっくり返すと、ごろごろと黒焦げになった長細いものが転がり出てくる。
「そら、橋立小女郎の腕だ」
得意げに宣言する男を仲間たちが困惑して見つめる。彼が示した先には、消し炭のように焦げた大根が転がっていた。
不思議な娘は今日も人間をからかい、馬鹿にして、引っ掻き回してその姿を消した。
―――――
▼
この物語は不思議である。
大して深刻ではないイタズラをした狐、捕まえたと思ってドヤ顔をするも一杯食わされていた漁師。間抜けでのんびりした笑い話に見えるようで、その実恐ろしい。
猟師は狐を火に投げ込んだ時、達成感を感じていた。狐も人間をひどい目に遭わせること、騙したり荷物を駄目にすることに後ろめたさはなかった。
この無邪気な乱暴さに、私は狐について読まれた短歌を思い出した。
「さし鍋に湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より来む狐に浴むさむ」(万葉集/巻十六 三八ニ四 長意吉麻呂)
(皆さん、柄のついた鍋に湯を沸かしましょう!櫟津の檜橋をコンコンと通って来る狐に熱湯を浴びせかけてやろうよ。)
あまりにも唐突、かつ乱暴である。
この歌の作者、長意吉麻呂は宴会の余興として即席で歌を詠むのが得意だった。
ある宴席で遠くから狐の声が聞こえてきた時、彼の仲間が戯れに「今聞こえてきた狐の声」「料理や酒の入った宴会の食器」「近くの川にかかる橋」を使って歌を作って場を盛り上げるようリクエストしたという。
彼は頓知を利かせて皆の期待に応え、皆は楽しい夜を過ごした。
橋立小女郎は、漁師は、長意吉麻呂は、宴席の仲間たちは、全員人一倍残酷な感性を持っていたのだろうか。多分そうではない。
もしこの歌の「狐」というお題が「友達」とか「恋人」とか、「町で見かけた気になるあの子」というチョイスだったら、彼のアウトプットは全く違っていただろう。
長意吉麻呂は狐に何の恨みもなかったし、友達の多い良いヤツだっただろう。そして狐は彼の友達ではなかった。
天橋立の漁師も狐の友達ではなかったし、橋立小女郎だって人間を友達だと思っていなかった。
ただ純粋に、「お互いの世界が地続きになっているかもしれない」という概念がなかっただけではないかと私は思います。彼らが道徳的に未熟だとか、人でなし(狐ですが)というわけでは、全くない。
でもどう考えても分かり合えなかったり、分かり合うという概念がそもそもない関係性は、日常の中に思ったよりも頻繁に登場するものですね。
▼
この物語に登場する人々は皆、橋立小女郎のことで頭がいっぱいになっている。
忌々しくも気になってしまい、親しみと疎ましさをこめて愛称で呼ぶ。自分の気持ちがコントロールできず彼女のことを考えてしまう。
一方、橋立小女郎は皆を困らせていることを意にも介さない。
そこでふと思い至った。これはいわゆる「モテ」というものに似た構造ではないか。
――「モテ」!
自分で書いておきながら馴染みのない言葉である。あまりに馴染みがないので困ってしまい、私はインターネットで検索することにした。
googleに「モテ」と入力すると、「モテる女の特徴」「モテる男の条件」「モテない人の欠点」「モテる〇〇術」などなど、到底読みきることのできない数の指南書が表示される。これだけモテる方法が提示されているということは、何らかの法則があるのだろう。
ここに書かれているのは概ね、過去の傾向から導き出されたキャラクター設定に寄せて自分を変化させるというメソッドだ。自分が対象に向かって歩いていく。
しかしこの法則に照らし合わせると、橋立小女郎はもう最悪である。相手にとってマイナスになることばかりするし、少しも思いやりがなく、自分が楽しむことしか考えていない。(彼女の悪行は他にもいくつかのパターンがあり、その殆どが怪我や病気のふりをして親切に声をかけてくれた人を騙すというものだ。ひどい。)
だけど皆彼女のことが頭から離れない。ふざけている間に命を落としてしまうかもしれない魂の削りあい、殺伐とした執着のフーガが、そうさせてくれない。
▼
もしも漁師が橋立小女郎を殺すことに成功していたらどうなっていただろう。
魚籠から転がり出てきたものが身代わりの大根などではなく、死んでしまった彼女自身だったら。
興味を持ちながらもほんのりと忌々しく、深く愛しているとも心から憎んでいるとも断言しがたく、心のどこかでフィクションのように認識してしまっている相手だったら。
その相手を一度ははっきりと捕まえることができて、自分の手で引導を渡し終えることができてしまったら。
きっと「してやったり」と高揚するだろう。だけどほんの少しだけさびしいだろう。そしてすぐに忘れることが出来るだろう。
捕り逃したもったいなさ、恥をかかされた怒り、絶対に許さないという決意、一度手に入れたはずのものが実は全くそうでなかったという寂寥感。それら全てに折り合いがつくだろう。
バレンタイン・デーが近づいている。
オフィスで配る業務用チョコレートを買いに行かされる新入社員、恋人へのプレゼントを吟味する大学生、年に一度しか来日しないショコラティエを求めるハンター。
デパート高層階の特設会場にさまざまな熱量が渦巻く。いたるところにピンク色のポスターが貼られ、街中が素晴らしい、前向きな好意で溢れているように見える。
だけど、果たして、甘やかな恋だけが美しく心を占めているのか?屈託なくチョコレートを渡せる相手だけが運命に作用するのだろうか。
例えば、別れた恋人を人生の悪役にしている。あるいはもちろん、何にも代えがたい人物をあたたかく思い浮かべている。自分のことが一番好きだからずっと一人でいる。暮らしも手につかないほど疎ましいやつがいる。
苛立っていたから忘れずにすんだ。ままならないから、渡せないから、果たせないから忘れずにすんだのかもしれない。
これら全ての執着について「良い」とか「悪い」とかいうことが何の救済にもならないと、私たちは経験して知っている。茶色い地層みたいにやわらかく薄い歴史が積もっている。お酒とクリームとガナッシュで出来たつやつやのオペラの層のように、これまでの感情がただ積み上げられている。
どんなに高いメゾンのお菓子だって食べてしまえば変わらないよという君。それに私、カカオってあまり好きじゃないの。断然ホワイトチョコレート派!それも油をそのまま食べているような、製菓用のがしがしのやつ。
だけどピエール・マルコリーニのハートの缶も、六花亭の包み紙も、デメルの猫の紙箱も、マクドナルドの三角チョコパイのレシートだって、全部引き出しの中に置いてあったよ。