【5月のヤバい女の子/仕事とヤバい女の子】
●鬼怒沼の機織姫
―――――
《鬼怒沼の機織姫》
川俣に弥十という若者がいた。弥十は姉の家に遣いへ行った帰り、山道を一人で歩いていた。
彼にとってこの辺りは勝手知ったる庭だったが、今日はいつもと様子が違う。いつの間にか道を外れ、知らない場所を登っていた。不思議に思いながらそれでも歩き続けていると突然草木が分かれ、ぱっと視界が開けた。眩しい目を凝らすと辺り一面花が咲き乱れている。しんと静まり返った沼の水面が広がる。
ああ、ここは鬼怒沼だ。弥十は悟った。
「川俣には、鬼怒沼という素晴らしい天空の沼がある。そこには美しい天女様がいて、一人で機を織っている。天女様の機織りを邪魔すると恐ろしい祟りがある。」
この辺りの子供は皆、そう聞かされて育ってきたのだ。しかし良い陽気である。ぽかぽかと暖かい。花の甘い匂いが広がる。こんな楽園のようなところでどうやって緊張していられよう。弥十はいつしかうとうとと眠り込んでしまった。
少しの間まどろみ、何かの音で目が覚めた。からり、とん、からり。
弥十が眠っていた岩のすぐそばで誰かが機を織っていた。弥十はとっさに身を隠す。間違いなく天女様だ。鬼怒沼の機織姫だ。鼓動が速くなっていくのを感じる。機織姫と恐れられている少女は今まで見たこともないほど美しく、今まで感じたことのない幸福感に満ち溢れていた。押さえようのない気持ちが弥十の中に湧き上がる。
いけない。恐ろしい祟りに遭うぞ。自分に言い聞かせるがコントロールすることができない。弥十はそのままふらふらと立ち上がり、透き通るような少女に近づいた。緊張で唇が乾く。舐めても舐めてもかさついてしようがない。
「て、天女様」
少女の腕を掴んだ。にわかに辺りが静かになる。からり、とん、という機の音が止んだのだ。弥十が掴んだ少女の腕は動きをとめていた。腕から視線を動かし、着物に透ける乳房を辿る。乳房の上の白い首を。首の上の、美しい顔を――――――――その顔は怒りに満ち満ちていた。
次の瞬間、弥十はもの凄い力で投げ飛ばされた。人間のものではない。そこでようやく我に返り必至で走り出したが、もう遅かった。逃げ惑う弥十に向かって少女が機織りの杼を投げつけた。顔面にもろに食らい、倒れこむ。額から赤い血が噴出す。機織姫の姿はいつの間にか消え失せていた。
その日の夕方、弥十は血だらけ、泥だらけという異様な様子で帰ってきた。おかしいのは格好だけではない。何を聞いてもぼんやりして要領を得ない。ただその手に美しい杼だけを握り締めていた。
弥十はどんどん衰弱し、やがて命を落とした。村の人たちは機織姫の祟りだと囁きあった。
―――――
仕事というものについて話し始めると、多分、めちゃくちゃにややこしくなって、全方位から議論をしなければならないだろう。今回は機織姫の怒りと仕事の関係について考えようと思う。
鬼が怒ると書いて鬼怒沼。この「鬼」「怒」という字は後から当てられたと言われているが、それにしてもバチギレである。彼女の怒りを現代に置き換えると、次のようになるだろうか。
機織姫は働いていた。働く理由というものは人それぞれだろう。人の数だけ働く理由がある。
彼女の出自はよく分からない。鬼怒沼に住んでいること、一人で機を織っていること。邪魔すると祟りがあること。機織姫の設定はこれだけしか明かされていない。なぜ機織りをしているのか、なぜここに一人で住んでいるのか。織った生地をどうするのか。機織りが古い時代から女性の仕事だったというのは定説である。バウハウスでは女生徒は織物を学ぶよう誘導されたという記録もある。機織姫が自分の仕事についてどんな感情を持っていたかは定かでないが、とにかく彼女は働いていた。
そこへ突然よく知らない人間がやってくる。ろくに話したこともないその人間は物陰からじろじろを機織姫を眺め、腕を掴む。機織姫は困った。腕を掴まれたら作業ができないではないか。
この人間が彼女の仕事に関係する人物ならよかった。反物屋さんとか、呉服屋さんとか、機械のメンテナンスに来た人であれば。そして、彼女の仕事に関係する話題であれば。しかしそうではなかった。よく知らない人物は腕を掴んだまま、彼女をうっとりと見つめ、「天女様」とか「きれいだ」とか言ったのだった。
辺り一面すばらしい景色が広がる楽園のような場所で、機織姫はピクニックもせずに手を動かしていた。劇中でそう呼ばれた通り彼女が天女なのであれば、労働しなくても飢えることはない。機織りが彼女にとってのライフワークであればその人生が、遊びたいのを我慢して生活のために働いているのであればその精神が織り機を動かしていた。しかし彼女に投げかけられたのは仕事とも人生とも精神とも全く関係ない、容姿や佇まいへの興味だった。
思い当たるふしがないでもない、という人もいるかもしれない。仕事の内容に関係のないコメントに遭遇すること。毎日の暮らしの中でこういうことにエンカウントするのは防ぐことができない交通事故のようですね。
機織姫は邪魔者を払いのける時、杼をぶん投げた。杼とは緯糸を収めた小さな道具だ。彼女は仕事を邪魔されたとき、仕事のための道具で反撃した。彼女にとって機を織るという仕事は世界であり、武器だったのではないかと私は思う。
いくつか伝わっている物語の中には、弥十の反撃を受け機織姫が姿を消したというエンディングもある。消えてしまった彼女はどこで暮しているのだろう。今も織り機に向かっているだろうか。それともまったく別のことをしているだろうか。幸福でいてくれれば私はどちらでも構わない。だけど彼女の織った生地の経糸と緯糸の重なる一目一目がもう見られないとすれば、こんなに悲しいことはない。
弥十が機織姫の美しさではなく彼女の織った生地について話しかけていれば、次のような物語になっていたかもしれない。
―――――弥十はその美しい絹にふらふらと吸い寄せられていった。こんなもの今まで見たことがない。興奮して思わず機織姫の肩を掴む。素晴らしい意匠ですね。どこからインスピレーションを?個人的な意見だけど、ここはもっと流れのある構成にした方がよくない?こういう風にした意図を聞いても?それにしても良い発色ですね。一緒に何かできれば嬉しいな。もうこの仕事を始めて長いの?一番最初に織ったもの、見てみたいな。素晴らしい意匠の前に興奮は尽きず夜が更けていく。朝日が昇り、心配した家族の元にぼろぼろに疲れ果てた弥十が帰ってくる。彼の手には二人が意気投合して作ったたくさんの試作品があった。そのどれもがこの世のものと思えないほど素晴らしいのだった。