【7月のヤバい女の子/身だしなみとヤバい女の子】
●虫愛づる姫君
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《虫愛づる姫君(堤中納言物語)》
蝶を愛する姫君の屋敷の隣に、按察使の大納言の娘が住んでいた。
「人々は花や蝶を愛するけど、私にはそれがとても儚く頼りなく思える。物ごとの本質を追い求めることこそが素晴らしい生き方ではないか。」
大納言の姫君はそう言って、人が嫌うような毒々しい虫を好んで集めさせて飼育していた。特に毛虫がお気に入りだ。よく観察するために邪魔な髪を耳にかけ、掌に乗せて可愛がる。
姫君は姿かたちを取り繕うことを嫌い、絶対に眉を整えず、お歯黒をつけなかった。笑うと小さなくちびるから真っ白な歯が見えるのだった。
両親はそんな娘に戸惑っていた。何か考えがあるのだろうとは思うが、どうにも世間体が悪い。
「お前の言うことも分かるけど、世間ではやっぱり見目麗しい娘が好まれるんじゃないかな。キモい毛虫を可愛がってるなんて噂されたらみっともないし…」と言ってはみるが、
「誰に何を言われても全然大丈夫。それより、物ごとの本質を辿って変化を観察し、真理に至ることの方が100倍重要だと思う。毛虫が蝶になるように、全ては移り変わるんだから。」と毛虫の羽化を見るように促され、てんで効果がない。
「ほら、蚕が蝶になってしまえば、皆が有難がる絹だって作れないでしょう」
万事こんな調子である。
一方で、頑なに風習に従おうとする一面もあった。「女と鬼は人前に出ない方が良いのだ」と言って両親にも直接姿を見せない。いつも簾越しに話すのみだった。
両親は姫君の意見を尊重しようとしていたが、屋敷の女房たちは不満を募らせていた。虫はうじゃうじゃいるし、怖がって騒げば姫君にじっとり睨まれる。兵衛と小大輔と呼ばれる者を始め、若い女房たちはいつも陰口を叩いていた。
「うちの姫、やたら賢しらに振舞ってるけどマジきつい」
「蝶を可愛がっている隣の姫君に仕えたい」
「もう説得するのもしんどい」
「毎日毛虫、毛虫で気が狂いそう」
「てか姫の眉毛もほぼ毛虫じゃね」
「じゃあ歯茎は皮の剥けた毛虫ってかwww」
「冬も毛虫の毛皮で過ごしたら暖かいんじゃねwww」
「それなwww」
と笑うのを、古株の先輩女房がたしなめる。
「またそんな風に言って!蝶を愛でないからって別に問題ないでしょう、何も毛虫を蝶だと言い張っているわけでなし。毛虫が蝶に変化する過程に興味を持つことは実際、素晴らしいことなんだから」
女房たちが怖がるので、姫君は男の子たちに虫を集めてもらっていた。本命は毛虫だがあまり資料がないので、カマキリやカタツムリも集めてもらう。男の子たちはみな、けらを、ひきまろ、いなかたち、いなごまろ、あまびこ等、虫にちなんだニックネームで呼ばれていた。彼らは姫君と一緒になって虫をテーマに歌を詠む。
いつしかこの生活が世間に知れ渡り、人々はゲテモノ好きの姫について、好き勝手に噂するようになっていた。ある家の御曹司も姫君の評判を聞きつけた。元気が良く、自身に溢れ、愛嬌がある若者だ。彼は「いくら虫好きだとは言え、さすがにビビるだろう」と企み、帯で作った動く蛇のカラクリを手紙と共に贈った。手紙は「――地を這いながら、私はあなたにかしづきましょう。あなたを思う心はこの(蛇の)身のように長く限りがない。」というものだ。
何も知らない姫君が包みを開けると、仕掛け通り、突然動く蛇が飛び出した。にわかに屋敷は大騒ぎになる。
姫君は女房たちに騒がないよう言い含めながら、「前世の親かもしれないから」と念仏を唱えてやる。ただ、突然のことに動揺し、声だけは震えていた。彼女が震える声を隠して「姿がきれいな時だけ愛するというのはどうかと思う」と言うのを、女房たちは馬鹿にして笑った。
駆けつけてきた父親が蛇の正体に気づいて騒ぎは収まったが、どんなものであれ歌を贈られてしまえば返歌をしなくてはならない。姫君は分厚くて汚い紙にカタカナで返歌を書いた。
「――ご縁があるものなら、極楽で会いましょう。虫の姿では傍にいられないから。」
返歌を受け取った御曹司は、「何この変な手紙!」と驚き、がぜん興味を持った。彼は名を右馬佐(うまのすけ)という。
右馬佐は目立たないよう女装し、友人と連れ立って、大納言の留守中に屋敷を訪れた。隠れて様子を窺うと、姫君は男の子たちと一緒に大量の毛虫を観察している。良い毛虫が見つかって興奮しているのか、ばたばたと足音を立てて簾から身を乗り出している。
それは不思議な姿だった。着物を頭まで被り、髪は美しいのだろうけれど手入れはしていなさそうだ。眉は黒く生え揃い、ちょっと涼しげかも。くちびるも中々素敵だけど、お歯黒がないのでどぎまぎする。絶対変なんだけど、どうにも鮮やかで魅力を感じてしまう。若い女性がよく着るような赤い袴ではなく、男性のように白い袴を身に着けている。
(化粧したら綺麗な人だろうに、もったいない。随分変わった人だ。)
男の子の一人が右馬佐に気づいた。女装した男性が覗いていることはすぐに女房に知らされ、女房は姫君に簾の中へ入るよう促す。姫君は男の子に頼んで垣根を見てきてもらう。本当に知らない男が立っていると聞くやいなや、姫君は毛虫を懐に仕舞い、家の中に駆け込んだ。
姫君が想像していたより素敵だったので、右馬佐は残念に思った。絶世の美女というほどではないにしても、結構可愛いのに。変だけど、気高くて特別な感じだし。ああ、でも虫好きでさえなければなあ。惜しいなあ。
帰りがたくなり、草の汁でまた手紙を書く。
「――毛虫の毛深い姿を目にした時から、手にとって大切に愛で守りたいと思っています。」
手紙を読んだ女房たちが姫君の恥ずかしい姿を人に見られてしまったと嘆く。姫君は動じずに「悟りを開けば何も恥ずかしくない。永遠にこの世にとどまって良いとか悪いとか言えるような人間はいないんだから。」とつぶやいた。右馬佐がずっと返事を待っているので、見かねた女房が返歌の代筆をした。
「――世間一般の人と異なる私の心は、あなたの名前を聞いてから明かそうと思います。」
この歌を見た右馬佐は「毛虫のようなあなたの眉毛の毛先ほども、あなたに敵う人はいないでしょう」と笑い、帰っていった。
……このお話の続きはきっと、第二巻にあるでしょう。
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「虫愛づる姫君」といえば、堤中納言物語の中で最も有名な話と言っても差し支えないだろう。高校生の頃に全く古文の授業を聞いていなかった私でも何となく覚えている。これほど有名な物語なだから、きっと色んな考察があって面白いだろうな。そう思ってうきうきしながら色々な資料を探し、ものの数時間で私は落ち込んだ。というのも、たくさんの資料の中で、姫君の矛盾点、異常性を取り上げるものがとても多かったからである。簡単に書くと以下のような感じだ。
●姫君の理論の矛盾
・物ごとの移り変わりを重視すると言いながら、幼虫である毛虫にばかり注目し、蝶を軽視して平等に扱っていない。
・姿が美しいものだけを愛でるなと言いながら、右馬佐から贈られた偽者の蛇に恐怖を感じている。
・風習に反抗しながら、「女と鬼は人前に出ない方が良い」と姿を隠している。
・恥ずかしいことは何もないと言いながら、右馬佐に見られていることを知って家の中に逃げ込んでいる。
↓
●矛盾点から導き出された解釈
・姫君は自分の異常な嗜好を正当化するために理論武装し、自分を特別に見せて周囲を煙に巻いているだけである。
・姫君が毛虫を好むのは脱皮して蝶(大人の女性)に変化することに対する拒否である。
・これは姫君が右馬佐に見られることによって一人きりの閉じた世界から異性の存在に気づく物語である。
などなど。
もちろん、ここでそれらを一つずつ取り上げて「〇〇先生の□□という本に△△と書いてありました!」と不満を言いたいわけではない。研究者の方は同じ時代の他の物語や、『虫愛づる姫君』のルーツとなった物語、当時の風習や古典の文脈などから専門的に考察しているのだから、私が突然丸腰で文句を言うのもおかしな話である。それに理論的に説明されていて、とてもよく分かる。
分かるのだが、ただ、ああ、なんか、めちゃくちゃ落ち込む…と思った。だって落ち込むではないか。ただ虫を愛でただけで、一人の女性、一人の人間が「虫を愛でるという異常な振る舞いをしたからにはこういう考えがあるはず。なのに行動が一貫していない。破綻がある」「虫を愛でるのは成長したくないという気持ちの表れである」と言われることに、考察とか批判とか抜きで、なんというか、(わーん!)と思ってしまった。
これは私の直感的・希望的想像だが、「虫愛づる姫君」は、別に普通の女の子ではないか?単に虫が好きで、物ごとの移り変わりに興味があるだけの一人の女の子でいることは、誰からも許されないのだろうか。
先輩女房は全面的に理解を示してくれるし、両親も価値観が合わないなりにそっとしておいてくれるが、同世代のキャラクターは少なからず姫君に否定的だ。
若い女房たちは「私たちをこんなに残念がらせてまで取っている行動なのに矛盾がある」とバッシングし、自分で思っているほど特別ではないのにと嘲笑する。右馬佐は登場シーンで「彼女の思想はどうせ辻褄が合っていないだろう(いくら虫好きとはいえ、蛇には流石にビビるだろう)」と軽視し、矛盾を暴くために蛇を贈る。みんな彼女の思想を矮小化し、軽視する。けして虫愛づる姫君をそのまま受け入れようとしないし、受け入れられない原因は姫君の方にあると考えている。
確かに姫君の言動には辻褄があっていないところがある。しかし、一から百まで完璧に辻褄があっていなければ、好きな服装と好きな勉強をしてはいけないのだろうか。(わー、毛虫が蝶になるのって不思議だな~。毛虫が蝶になるくらいなんだから他のものも何か別のものになるんだろうな。おもしろ~!もっと他のものも見てみたいな。)と思うことに大義名分が要るのだろうか。ひとたび虫が好きだと言ってしまえば、どんなシチュエーションでエンカウントしても、予期せぬところから襲われても、堂々と対峙しなければならないだろうか。もしも知識が足りず、経験も少なく、思慮が浅いのであれば、色々やってみながら精度を高めていけばそれで良いような気がする。だって「変わったことをやりたければ最初から完璧な理論を用意しなければいけない」というのなら、誰も何もできないではないか。
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姫君の矛盾の中で私が一番違和感を感じるのは、「鬼と女とは、人に見えぬぞよき(女と鬼は人前に出ない方が良い)」という台詞だ。
なぜ、そんなことを言うのだろう。彼女はいつも真理を追い求め、自分の中で尊重するべきこととあまり気にかけなくていいことを判断し、自力で優先順位をつけている。それなのに当時の風習(「永遠にこの世にとどまって良いとか悪いとか言えるような人間はいないんだから」と彼女が言った通り、時代とともに移り変わり今では成立しなくなった風習)に従おうとすることに疑問を感じる。右馬佐に覗き見られた時だって、「悟ってしまえば恥ずかしくない」と言っているんだから気にせずに毛虫研究を続けそうなものだが、姫君は身を隠してしまった。
それに、「鬼」というイメージはどこから出てきたのだろう。
女と鬼。鬼が人前に出ない方が良い理由は簡単に想像できる。もしも突然鬼が現れたら人々は驚いて危険を感じ、逃走か退治を計る。鬼と出くわして混乱している人は鬼の素性について考えない。一たび見てしまえば恐怖か、侮蔑か、怒りか、悲しみか、好奇心を感じ、鬼に対してアクションを起こそうとする。ダメージを受けないようアクションを避けながら自分のことを説明するより、最初から出くわさないよう気をつけた方が安全だ。姿を見せなければ誰かを不快にさせることも、「鬼がいた」と噂が立って討伐されることもない。鬼は行きたい場所、見たいものを我慢し、息を潜めて目立たないように窮屈にしていれば安全に暮らせるのだ。
姫君はいつも体を張っている。自分の体と装いをもって風習というレギュレーションを破壊しようとしている。しかしそれは基本的には自分の生活の範囲で行われる。虫に過剰反応しないでほしいと女房に要求してはいるが、嫌がる女房に虫捕りを強制したりはしない。自分と同じように白い袴を着ることや、眉を生やすことを無理強いすることもない。自分の生活の範囲の中でのみ、彼女は自由に行動する。虫捕りを手伝ってくれる男の子は姫君を否定しないので、一緒になって歌を詠う。
右馬佐に見られたとき、姫君は毛虫を放り出さなかった。それは姫君の信念が揺らいで逃げ出したのではないことを意味していると私は想像する。ほんとうは誰に見られたって姫君自身は何の問題もなかった。だけど彼女はもう十数年もの間、この世界で暮してしまった。この世界で何をすればどんなことが起きるのか、何を言われてどんな扱いを受けるのかを少し知ってしまった。騒ぎになって庭に出られなくなったら虫を観察できなくなってしまう。それに両親が近所の人に色々言われるのを気にしているのも知っている。
彼女はもしかするとこう思ったかもしれない。(私の目的は、見知らぬ男性に自分の意見を通すことでも、両親をわざと困らせることでもない。ただ虫を愛し、物ごとの成り立ちを知りたいだけなのだ。それならせめて姿を隠してあげよう。ややこしいことになる前に退散しよう)。鬼と「鬼のようにイレギュラーな女」は人前に出ない方が良いと、彼女は考えていたのかもしれない。
とは言え、虫愛づる姫君がほんとうに鬼のようにイレギュラーな存在だったかというと、私は案外そうではなかったのではないかと思う。
虫愛づる姫君には、名前がない。隣に住むという蝶愛づる姫君にも。彼女を取り巻く人物には「けらを」とか「兵衛」とか「右馬佐」等の固有名詞が与えられている。右馬佐以外はニックネームや仕事用の呼び名だが、「the」と特定できるよう扱われている。それなのに姫君たちはただただ概念として存在している。まるでこの世界に点在して同じような目に遭っている女の子たちに共通するように。
もしも2017年なら、インターネットがあれば、この「虫愛づる姫君」はどこか遠く離れた場所に住む別の「虫愛づる姫君」と知り合い、意気投合できたかもしれない。あるいは、隣に住んでいるという蝶愛づる姫君と仲良くなることもできたかもしれない。蝶だって虫である。
「虫愛づる姫君」は、別に、取り立てて、異質ではなかった。好きな勉強をして好きな格好をする一人の女の子だった。彼女がオフラインの生活の中で関わったせいぜい数十人~数百人の人たちが、彼らの軸に沿って彼女をカテゴライズしたのだ。
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ところで、恋というものは常に生まれなければならないものだろうか。
この物語は「二の巻に続く」と〆られている。しかしその二の巻は残されておらず、おそらく最初から存在しなかったのだろう、作者がストーリーに余白を作るためにこう締めくくったのだろうと言われている。
どんな結末でも読者が自由に想像して良いのなら、私は姫と右馬佐に恋が生まれなければいいと思う。とても人間性が低い希望なので憚られるが、そう思ってしまったので許してほしい。または、限定的に「今現在の」右馬佐としておく。
右馬佐は姫君の外見を「見慣れない雰囲気だな」と思いながらも涼しげだと感じ、惹かれている。それはニュートラルに彼女を評価しているように見えるが、そのすぐ後に(「虫好きでさえなければ」「もっと見た目をちゃんとしたら」もっと魅力的なのに、もったいない)と続く。
この「もったいない」は、右馬佐が(現時点では)自分の世界の価値観を崩壊させる気がないことを意味している。右馬佐の価値観に照らし合わせると、現時点ではやはり、化粧をして女らしい身なりをしていること、そもそも顔が整っていることが前提条件となるのだ。姫君がどれほど虫を愛していようと、そして姫君の涼しげで魅力的な雰囲気がその探究心から湧き出ていようと、そこには重きを置いていないのだ。
これを現代に置き換えると結構ひどいのではないか。
――興味のあるものに夢中になって好きなように暮していたら、身近な人たちから「カシコぶってて痛い」と文句を言われ、見ず知らずの男から「お前の探究心はどうせ中途半端なものだろ」と嫌がらせをされ、でもその嫌がらせに返事をしなければならず、返事をしたら余計に絡まれてじろじろ見られた。知らない男がキモいので逃げると「うわっ、逃げた。やっぱり生半可な覚悟なんだ」と全然関係ない傍観者に分析され、当の男からは恋を示唆しているとも馬鹿にしているとも取れるLINEが届く。しかもその男は「化粧したらかわいいのに惜しい~」とか言ってる。
もしもこの内容が友達からの相談であれば、おそらく私は「恋を示唆してるつもりならとんちんかんすぎるし、馬鹿にしてるなら許さん」とコメントするだろう。「惜しいってなんやねん。何も惜しくないわ!」とも。だけどこのシチュエーションが物語にボーイ・ミーツ・ガールとして登場することによって、このシーンは何か良いもののように見えてしまう。埋もれた少女の魅力に少年が気づいたとか、性の目覚めとか、そういう意味を持たされてしまう。「ナメ」が「青春のエモみ」に包まれて、うやむやになっていく。
当然ながら、作者がこの後の展開を自由に想像できる仕掛けを作った以上、二人の間に恋が生まれる可能性もある。作者が姫君を肯定したいのか、否定したいのかも意図的にぼかされている。
姫君は蛇を贈りつけた右馬佐の歌に対して、「まつはれにくし虫のすがたは(虫の姿では傍にいられない)」と言った。「虫の姿」というのは、単純に蛇を指しているのではないのではないか、という気がする。蛇(≒虫)の姿でも、むしろ蛇(≒虫)の姿の方が、姫君に愛される可能性は高いはずだ。だって「虫愛づる」姫君なのだから。「虫の姿」とは、「虫(蛇)を贈って私を試そうとするあなたの姿」だったらいいな、と私は思います。
物語には続きがない。つまり、エンディングが決まっていない。虫愛づる姫君はこれから先、どうなってもいいのだ。でもそれは決まったシナリオのない現実世界でも同じである。
数ヵ月後、やっぱり虫を観察している時の表情が一番素敵だったな、と思った右馬佐がまたアプローチしてくる。右馬佐は姫君を嘲笑しただけで、結局その後音沙汰はない。姫君が生物学者と出会って意気投合する。姫君が昆虫博士になって人類を救う。二の巻のストーリーを無限に妄想しながら、虫愛づる姫君に幸あれ、と願った。/終