クロダイは硬派で格調高い魚だ。
チヌというよく知られた呼び名からして、その響きに古語の趣きがある。そして、見た目にけれん味がない。個体による違いはあれど、色味の削ぎ落とされた身体に少し青ざめた頬、というのは概ね共通している。紅い鱗に空色の星が散るマダイや、明るい銀白色に黄色を差したキチヌのような華やかさとはひと味違う、まさにいぶし銀という言葉がぴったりの格好良さ。
幸田露伴の『幻談』という短い小説は、江戸の海でケイズ(クロダイ)釣りをする侍の少し不気味な体験を描いたものだけれど、チヌという魚の持っているシンと静まりかえった雰囲気は、この物語にとてもよく似合っていると思う。
頭のいい生き物に恐らく特有の、繊細さと図太さとを併せ持っている。チヌを狙う釣り人は、他の魚には目もくれずにチヌとの駆け引きだけに集中する体で、脈を取るように根気よくアタリを探って波止を歩き回っている。それぐらいストイックにならないと、チヌは釣れない。・・・はずなのに、突然子どものサビキ釣りの竿に40センチ以上あろうかという大物がかかったりする。そうしてファミリー向けの海釣り公園でサビキにかかったチヌは、銀の鱗を鈍く照り返して棘の目立つ黒い鰭を広げ、ばたつくこともなく周囲の見物人を威圧していた。
マダイが海の王様なのだとしたら、チヌは王室の空気が肌に馴染まず野に下った双子の弟のようなものだ。だからこんなにも格調高い魚が、船に乗っていかねばならないような沖の深みではなくて、せいぜい深さ5メートル程度の波止の岸壁周りにいる。頭がよくてグルメだから、庶民には思いもよらないようなものをごちそうとして「発見」してしまう。カイコの蛹やスイカやトウモロコシでチヌが釣れるのはそのためだ。
転職が決まった日、近所のスーパーでチヌを買ってきて鯛めしとお吸い物にした。チヌは味にも一癖、いわゆる磯臭さのようなものがあってひねりが利いている。白と黒の鯛めしはおめでたげではなかったけれど、妻と小さなアパートでお祝いするには充分の、立派な御馳走だった。