ちょっと前に、近所のライブハウスで服田洋一郎のライブがあると聞いて、その日は割と夜遅くまで作業系の仕事があったのですが、作業を途中で中断して久しぶりに演奏を聴きに行ってきました。この読者の99%の方は誰の事だかさっぱり分からん、とおっしゃると思いますけど、日本屈指のブルースギタリストで、レイジーな歌唱と、時にパンクに或る時にはジャジーな味付けのまさにワンアンドオンリーなギタープレイで40年以上も観客を楽しませてきた方です。ぼくも熱心とは言えないまでも20年来のファンであって、その日をとても楽しみにしておりました。
その日のステージもいつもと全く変わらず、傍らの缶ビールを演奏の合間にぐびぐびと飲みながらモダンブルース黄金期の名曲を「はっちゃん」流の独特の解釈で演奏は続きます。2時間強のステージはあっと言う間で、終演後はいつも同じ様な感覚になります。
それは、「何も変わっていない」という一言に尽きます。何年経とうがこうやってぼくたちの前でいつも変わらずに何かをやっている年長のパフォーマー、芸術家の姿を観てその健在ぶりを感じる時、いつも自分の背中を押された様に感じ勇気づけられます。
自分もまた明日から坦々とすべき事を続けて行こうと。
ブルースという音楽が好きです。19歳か20歳の頃たまたま手に入れたシカゴブルースのオムニバス盤を聴き、大学の図書館でマディ・ウォーターズのレーザーディスクを観た時「なんだこれは」と思いました。ステージの上でスツールにどかっと座りながら、ギターを弾き、唸るように歌うマディの姿を見てるうちに、だんだんと深みにはまって行きました。出会いは偶然でありましたが、それは、自分の心と身体にとりついて離れる事はなく今に至っています。
ブルースは定まった形式を持っていて、そこからはみ出す事をしません。あらかじめ決められたルールの中で奏者は自分の個性を表現します。はみ出そうとすると、それはブルースではなくなってしまいます。進化をする事を拒否したような世界とも言えるかもしれません。
若い頃、ぼくはまだモノを作る人間であり、将来そういう世界に生きて行くつもりでした。誰もやった事のない新しい表現とは何か、いつもそんなことばかり考えていました。今思えば何も確立したものがないのに破壊行為ばかり夢中になっていたので、それが作家になりそこねた最大の原因だと分かるのですが、ブルースの世界に踏み入れて行くにつれ、新しい表現を目指すことは次第に自分の興味関心から遠のいて行きました。
新しい表現とは、平たくいえば技巧手法の話になるわけで、それは目の刺激のようなもので、作り手の側もそれを受け止める側も常に新たな刺激を追い求めていきます。それは、巷のコンビニや自動販売機に続々と供給される新しい味覚の人工的清涼飲料水と同じで、とりあえずは飛びついてみるものの、長続きしないで、また別の刺激が登場するとそれに移っていく、という感覚に良く似ています。その魅力は微炭酸の泡のごとくあっという間に消え果てるものであって、それは表現を味わうというよりは、その瞬間の刺激を感覚するだけなのだから、ある種の憂さ晴らしと同じだと思うのです。
目の刺激はいつしか消えてなくなります。しかしホンモノの表現とは消えてなくなるものではありません。その違いは、技巧手法によってある表現メディアの可能性を拡張しながら、視覚や発想の斬新さをアピールするものと、愚直に年を重ねながらある鉱脈に向かって黙々と掘り進めて行きながら、自分なりの視点、新たな解釈を示すということを示すものの違いです。写真術の誕生から170余年、機械と化学による産物と呼ばれた写真で独立した表現形式への模索が試みられてから100年以上の年月が流れた今日、写真表現の様式とはほぼ定まった形を持ち、数多くの古典と呼ばれる歴史に残るイメージを生み出しています。もはや、新しい刺激のみを追いかけるのではなく、ゆっくりと画面に立ち現れる図像の世界へ足を踏み入れるべきです。
あの日、服田洋一郎は、T-ボーン・ウオーカーの「ストーミー・マンデー・ブルース」を歌いました。
月曜日は嵐のようで、
火曜日だって悪い、
水曜日は超最悪、
木曜日はとても哀しい
金曜日に鷲の絵が描いてある札が飛ぶ
(それを掴んで)土曜日には遊びに行く
日曜日は教会に行って ひざまづく
もう、40年以上歌い続けていると思うんですが、ステージの上の「はっちゃん」の姿をみながら、20代のストーミーマンデー、40代のストーミーマンデー、そして60過ぎたストーミーマンデーって何だ?と思いつつ、良いも悪いもぐるぐると、頭の中を言葉が駆け巡ります。
全く自分の毎日も似たようなもんだ、と思いつつ。