先日、久しぶりに007の新作を劇場で観た。
シナリオのB級さも含めてかなり堪能。
ダニエル・クレイグのちょっとくたびれた感じのジェイムス・ボンドは結構好きだ。
ハビエル・バルデムの怪演というか名演が素晴らしい。
アデルの主題歌とオープニング映像はセクシーで秀逸。
音楽や衣装、その他エキストラに至までディテールが徹底して作る込まれている点、
その場面、国柄にあわせた、というか、場面の個性を引き込むようにして作られた映像、
その他、演出的にプロの仕事を感じさせてくれるところ満載。
プロの仕事は、観ているものの意識が不必要なところで引っかかるような事はしない。
(小津映画がその最良の例。)
とにかくスムーズ。そして次の扉を開くための鍵がそのスムーズな流れの中に
実は巧妙に隠されながら表されていたりする。
こういう流麗さっていうのは、職人的な仕事ができないと、無理なんだよなあ、と思う。
スタッフの中に多くの’Q’の様な人物が関わっているに違いない。
(新しい’Q’は若くてオタクな髪型してる。これも時代の流れってもんだな。
彼が開発するガジェットがもうちょっと多くてもよかったかな。そこだけちょい残念。)
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ともあれ、重要な情報を細部に託してそれをある文脈の流れの中に上手く溶け込ませる、
または、何かを伝えるために、そのこと自体を目立たないようにお膳立てする、
または、内に秘めるのではなく表層に秘める、ということは
いわゆるサブリミナル効果とかいうやつに近いところもあるかもしれないが、
ああいう無粋なものとは全く違って、そのための技術やある種の熟練を要する事だと思うし、
そこに関わってくる情報の量が格段に多く、なかなか難しい。
そういう風に見た目を整えるという事は、それを観た時に反応する観客の意識の流れを想定しながら、
その想定に沿った形で、その鏡像のようにして、ある流れを表出するという事だから、
認知科学的な知識や、共感能力や、物語編集能力も必要だろう。
意識そのものの構造を知るために、パースの記号学や、仏教の唯識論を学ぶ事も有効かもしれない。
表層に秘められている情報を読むという意味では、観相学や手相見を学ぶべきかもしれない。
まあ、そういうお勉強ばっかりでも仕方なくて、結局は推量るという能力を高めて、
しかもそれを実際に表出するための技術の裏付けがなければどうしようもないのだとは思うけど。
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先週末、建築家の三木龍朗に彼が持っている辻村史朗氏による長次郎っぽい作りの黒樂茶碗を見せてもらった。
本物の作家の本物の作品を触ったことがほとんどないぼくに、
彼がそういう本物の茶碗の鑑賞の仕方を教えてくれたのだが、それによると、
まずそこにある景色を眺める事ももちろん重要だけど、それとは別に、
その茶碗を触りまくってみると何かが伝わってくるものらしい。
そういわれて、撫で回していると、確かに何とも言えない感興のようなものが浮上してくる。
茶碗の表面には、ひっかかりのようなものはないが、かといってまったく何の抵抗もないわけでもない。
ランダムで微細な起伏が手のひらを滑らかに刺激する。
この滑らかで且つランダムで微細な起伏というのが、どうも意識の流れと似ているんじゃないかと思う。
この表面からの微細な刺激が触覚を通して触っている者の意識を鏡像として浮上させる、感じか。
作為が見え見えのものでは、そこに意識のある部分だけが引っかかって、
それがさらにあれこれ別の情報を呼び出し始めてしまう。
茶の湯の席では、そういう雑念を刺激するようなものは避けられるのかもしれない。
(茶会に出た事がないのでわからない。)
作為が見えなくなるまでに作為されたものは、それに触れる者の普段は水面下にあるような意識を
可視領域に浮かび上がらせるような機能を持つのかもしれない。
離見の見をプロヴォークする禅的ディヴァイス、ということか。
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そんなある種魔術的な(そして反貨幣的な)ディヴァイスとしての茶碗をいずれ作れたら良いなあ、
とか思うが、意識の鏡像を何かの表層に秘め込むためには上に書いたように
共感能力と熟練技術がまず何より重要、ということで、つまりは豊富な人生経験と製作体験がなきゃね、という事でもあるわけだから、どれだけ時間がかかる事やら、である。志を高く持ってのんびりと、行くしかないなあ。
とりあえず小津の『東京物語』を観るか、漱石の『草枕』を読むか、しようと思う。