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2F/当番ノート

道具について。

当番ノート 第5期

石工だった父親の仕事場で子供の頃はよく遊んでいたが、
父や他の職人達が使い込んでいた道具は
なぜかとても魅力的で、
時々、使い方もわからないままに、
欲しいとねだって、そのおっさんたちに笑われた。

また、墓石なんかの欠けた部分を修繕する時に、
父がその辺に転がっている木片を拾い上げ、
それをコテのように使って、膠(?)と石の粉を手際よく混ぜていたが、
その、ただの木片がコテと言う「道具」に昇格する過程など、
なんだか手品をみているような気がして、じっと見入ったものだった。

道具ってなんなんだろうか。
なんとかマクルーハンという人が道具(メディア)ってのは、
人間の機能の延長として作られるというようなことを
言ったんだか書いたんだかしたらしい。
ま、確かにそれも一理。
でも、それだけなのか?

例えばの話、金槌は、
釘を打つのにも使えるし、
鉄を鍛えるのにも使えるし、
岩を砕くのにも使えるし、
場合によっては文鎮としても使えるだろうし、
別の場合によっては凶器としても使えるだろうし、
アトリエに入れば静物画のデッサンモデルとしても使えるだろうし、
もしかしたら筆記具としても使えるかもしれないし、
栓抜きとして使えないこともないし、
肩たたきとしても使えるし、
泳げない人を表す比喩としてだって使えたりする。

大雑把に分けると、ある用途を目指して作られた場合の道具と、
必要に迫られて、とりあえず、そこにあるもので用を足す場合の道具と、
二通り考えられる。(比喩はまた別レベルだね。)
金槌ならば、
1.一途に「打つ」という機能を専らとする場合と、
2.使う人がその重さや形状を利用し、必要に応じて、多様な機能をそこに見いだす場合、
があるということらしい。

この一途と多様の塩梅が結構なキモだと思うけど、
2のケースは、多くの場合、軽視され過ぎだと感じる。
専門的に作られた良い道具に出会う縁も素晴らしいが、
たまたまそこにあったものが、そこにある状況に欠けていたものを
補うことが出来ると言う縁は、そこに現れる機能がその時、その場面にだけ有効だからこそ、
じつはもっと奇跡的だとも思う。
そして、ある道具の専門的機能を徹底的に生かす専門的技能を身につける事も重要だが、
ある道具の別の機能を見いだす事で、別の機会にその道具に似たようなものを
同様に使いこなす方法を学習する事もまた、大切な事だと思う。

全く話は変わるけども、30代後半に物凄く悩んだことがある。
モノゴコロついてからずっと引っかかっていた事だったんだけども、
その頃になって、えらくヘヴィな問題となって文字通り懊悩していた。
その問題というのは、簡単に言えば、血の問題。つまり遺伝と育ちの問題。
端的に言えば、自分が持っているもの、持たされてしまっているものに対する、
不満と不信と不安である。
そういう「三つの不」のはけ口として、両親への不平が出てくる。
といっても、誰かの親だからといって、そんな個人の内側の問題をどうこうできるような力も方法も、
はいどうぞと言って提供できるような人はなかなか居ない。
というか、そういう問題に対する答えは、結局のところ、自分で見つけるしかない。

父親が急死したあとで、その辺りのファンダメンタルな問題に対して、
真っ向から向き合わざるを得ないような状況が頻出した。
文句を言う相手もこの世には居ないので、自分で解決するしかない状況であれこれ考え、
疲れ果てた挙げ句、たどり着いた結論が、もうしょうがないよね、ということだった。
持って生まれたもの、育った環境の中で染み付いたもの、そういうものは、
いきなり棄てるわけにも行かないんだし、そういう諸々をもっちゃってるのは、
しょうがないよね、ということだ。
そして、そのあとに続けて考えた事は、もしそれらが上手く機能していないのならば、
その使い道を変えればいい、ということだった。
おそらく、ぼくはぼくの中の金槌を金槌としてしか使えないと思い込んでいた。
もっと別な使い道も考えられるにも関わらず。
というか、よくよく眺めてみれば金槌だと思っていたものが、花瓶だったりする。
(乱暴な扱い方をしていたものだ。)
さらには、木っ端同然につまらないものと思っていたものが、
掘り出し物にも見えてきたりしてくる。

そんな風に観察していくと、ないものも結構ありそうだけど、
自分が持ってるものだけでも結構いろいろ楽しめるかもしれない、
という気になってきたのだった。

そんなこんなで、両親に対しても、
今こういう態(てい)で生きている事に対しても、
ずいぶん素直に「有り難い」(滅多にない、ってことですね。)と思えるようになった。
まあ、すっかり悟ったりしてるわけじゃないので、
いまだに不満も不信も不安も解消しきったわけではないけれど。

結局、ぼくにとっては「道具とは何か」という疑問は大して重要なものではないのだろう。
どのように道具を作るか、何を持って道具に仕立てるか、それをどのように使うか、
そしてそのための方法を学ぶ事、そういう事の方が大切だと思っている。たぶん。
それは、内側の事であっても外側の事であっても同様で、
それは、分かれているけれども分けることは出来ない。
道具というのは、自分の一部であったり自分の一部になったりする、
鏡のような他者の一部であり、その全体なのだから。

ひだま こーし

ひだま こーし

岡山市出身。ブリュッセルに在住カレコレ24年。
ふと気がついたらやきもの屋になってたw

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