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2F/当番ノート

ありあまる富。

当番ノート 第5期

朝起きると、携帯電話の電源が落ちていた。
充電切れ。

実家に泊まった夜。
久しぶりに祖母の夢を見た。

前回のコラムにも書いた、本通り沿いにあったお米屋さんが舞台だ。
店の奥にある、真っすぐで薄暗く、長い階段を上がると、そこはお米屋さんの二階。
長屋のような造りで、3つの和室が続いていた。

夢の中では、私は幼き子供。
きっとそれが祖母に見つかれば、厳しく叱られるだろう。
そのことを自分がわかっていたのかどうなのか、
私はピンク色の掛け布団に、黒い油性のマジックでいたずら書きをした。
なぜかわからないが、書いた文字は「kururi」と。
「くるり」のことを言いたいのなら、「k」ではなく「Q」だ。

二階の南側に面する部屋はわずか二畳ほど。
東側に押し入れがあった。
そこが姉の部屋だった。これは夢の中でだけでなく、本当の話。

私には5つ年の離れた姉がいる。
姉は小学校低学年の頃から中学を卒業するまで、祖母のもとで育てられた。
これが兄妹で過ごす時間を減らした一番の理由だ。
なぜ姉が、幼少時代をそのように過ごさなければならなかったのか。
実は本当の理由を知らない。親に聞いても、祖母に聞いても、姉に聞いても、
その答えが一致することはなかったからだ。
幼くして、不思議と思っていたことだが、
私は途中から追求することをあきらめていた。
そして子供だった私は、子供は知らなくてよいこと、として、
そっと胸の奥にそのことをしまい込んだ。

私は末っ子だったからだろうか。
いつまでも親からは子供扱いで、そういったことがいくつもあった。
兄のことにしても、姉のことにしても、そして、祖母の最期のことにしても。
私には知らされないことが多かった。

祖母の最期は、3月。
私は病院のベッドに眠る、しゃべらない祖母と対面していた。

その2ヶ月前のことだった。
たまたま用事があって年末に実家に連絡した時のこと。
父親が電話に出て、直感で何かおかしいと感じた私は、
父親に、母親に代わってと頼んだ。
が、代われない、出られない、というのだ、電話口に。
よくよく聞くと、祖母は末期ガンだと宣告され、
母親は、つきっきりで祖母の介護をしているのだと。
夜もなかなか眠れずにいて、だから電話口に今は出られない、と。
驚いた。そんなことまで私には知らせてくれないのか、と。
でも同時に、親が私に対して心配をさせたくないという想いで連絡をしなかったのだ、
ということがひしひしと伝わり。
それがわかった時に、夫の前で私は少しだけ泣いた。
数日後には、それを知った母が私に電話をよこした。
そして、私は姉とも話した。
わかっていたが、姉は何もかもを知っていた。
姉の心境がわかるようでわからない。
どれほどまでに辛いだろうか、想像してもそれはどのくらい深いのか、
わからなかった。
親のように自分を育ててくれた祖母、なのだ。

葬儀の時に、姉は倒れそうなほどに泣いた。
私は、その姉の姿を見て間違っていた、と思った。
奥にそっとしまったつもりでいて、どこかで詮索をしていたのだ。
祖母に対する姉の想い、両親に対する姉の想い、なんかを。
両親と暮らしたかったのではないだろうか、
一緒に暮らしている私や兄のことを羨んでいたんじゃないか、
苦しみ、辛さ、恨み、憎しみ、など、考えても考えても、
そんなことばかりが浮かんでいた。
でも、それは違っていた。その時の姉の姿を見れば一目瞭然だった。
少なくとも、前に述べた想いは抱えていたことに違いないのだが、
それだけではなかったんだ。
姉からは、感謝の気持ちが伺えた。
もう戻らない祖母に対して。

姉は今も変わらず、実家に入らず、離れて暮らしている。
一度だけ、家族がそろって暮らしたことがあった。
それは私が高校を卒業して実家を建て直した頃だ。
今まで一緒に暮らしたことがない大人が、ひとつ屋根の下に暮らす。
まるっきり平和だったかといえば、そうでもない。
ただ、その頃は祖母は年老いていたし、昔と比べたらあの厳格さは薄れていた。
私からしてみれば、祖母は私が小さな頃から、厳しくて怖い人だった。
時々、母親が用事で出かける晩に預けられることがあった。
あのお米屋さんの二階の姉の部屋で、押し入れをベッドにして寝たことがあった。
真っ暗な押し入れで、祖母に見つからぬよう静かに泣いている私を、姉はなぐさめてくれた。

お盆と正月には実家に帰省する姉。
私の娘たちつまり姪っ子のことを、とても大切に、かわいがってくれる。
自分の子のようにかわいがってくれる。
毎回、私の妊娠と出産を喜んでくれた。
姉には、幸せであってほしい、と心から願っている。

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