カレーを作る時に必ずといってよいほど思い出すことがある。
私が小学二年生の時の記憶。
一年生の時に同じクラスになり仲良くなったアサコちゃん。
そのアサコちゃんと幼稚園が同じだった仲良しのマリちゃん、
クラスは違えど、私はマリちゃんと一緒に遊ぶようになっていた。
あの頃のマリちゃんの家は、今はもうない。
二十歳を過ぎた頃、マリちゃんの家のまわりにあった田んぼは埋められ、
マリちゃんの家もいつの間にか取り壊され、
辺り一帯がアパートとその駐車場に変わってしまった。
おじいちゃんとおばあちゃんで農業をし、
マリちゃんのおかあさんもそれを手伝っていた。
マリちゃんのおかあさんは、旦那さん(マリちゃんのおとうさん)の
大工の手伝いも、時にはしているようだった。
おじいちゃんたちもそう永いこと農業を続けていくのはしんどかっただろうし、
どんな事情があったのかは、深く知らない。
ただ、その頃の私はマリちゃんと会う機会は減っていたのだが、
ずうずうしくも心の中で寂しいと感じていた。随分と勝手な想いだ。
マリちゃんには歳の近い弟が二人居た。
時には喧嘩もする、私から見たらとても仲の良い姉と弟だった。
私は末っ子で、兄とも姉とも歳が離れていたり、他に事情もあったりして、
兄妹で一緒に遊ぶ、同じ時間を過ごす、ということが極端に少なかった。
だからなのかもしれないが、マリちゃんちに遊びに行くのが好きだった。
賑やかで、弟たちも交えて遊ぶのがとても楽しかった。
マリちゃんは、小さな頃からおかあさんに料理を習っていたようで、
その歳にしてはめずらしく、いろんな料理を作れるようだった。
マリちゃんとおかあさんの会話だったり、やりとりを端から見ていれば
それはわかることだった。どこまでレパートリーがあったかは知らないけれど。
秋になれば、スイートポテトを作って食べた。
家であんなに美味しいものが作れるなんて、と感動したものだ。
私の両親は共働きで、私は鍵っ子だった。
おまけに母は料理をそれほど得意とせず、習った料理は、
レシピ本などに載っている定番メニューなどでは決してなく、名もない料理だった。
それも私が大きくなり、成人する頃の話だ。
今になってみれば、母も働いていたのだし、時間がない中で、
私たち家族に一生懸命ご飯の支度をしていたのだとわかる。
でも、幼かった私は、ハンバーグを作ってくれたり、
コロッケなども手作りしてくれるような、そんなおかあさんに憧れていたのは事実だった。
日曜日だった。マリちゃんちに遊びに行くと、
大人が全て出払っていて、家に居るのはマリちゃんと弟ふたり。
それはもしかしたら私の曖昧な記憶で、
おじいちゃん、おばあちゃんあたりは外で農作業をしていたかもしれない。
が、家の中には子供たちだけ。
そして、お昼の時間が近づいてきたとき。
「今日、カレーつくらなきゃ。」と、マリちゃんが言った。
その一言で、弟ふたりにスイッチが入った。
なんと、弟たちが準備を始めたのだ。小学校にもあがっていない子供たち。
私は、何もできずそこに立ち尽くしているだけだった。
手を出してもいけないような気もしたし、
手伝いたくても何をどうしたらよいのか、全くわからなかった。
やれたとしても野菜を洗う程度だっただろう。
弟たちが鍋に油を敷き、そこに肉を一気に放った。
カレー作りは目の前で見る間に進んでいく。
鍋底に肉が一瞬貼り付く、ジューーッという音。
肉の焼ける匂い。
ひとりが炒め、ひとりは野菜を投入し始める。
力強く炒めている姿が、とてもかっこよく見えた。
横で時々口を出すマリちゃんも、かっこよかった。
姉と弟たちのチームワークが羨ましかった。
その数年後、家庭科の授業で初めての調理実習。メニューは、カレーとサラダ。
5、6人がひとつの班となり、調理台を囲む。
しかし、そのときも、私は控えめだった。
同じ班の子が率先して切ったり、炒めたりしているのを、
後ろからただ、見ているだけだった。洗い物をしたことしか覚えていない。
私がひとりでカレーを作れるようになったのは、
そこからまただいぶ年月が経ち、ひとり暮らしを始めた頃だ。
けれども、その頃自分で作っていたカレーのことは覚えていない。
作ったつもりでいるだけで、それほど作っていなかったのかもしれない。
そして今、家族を持ってからというもの、私は月に何度かカレーを作るようになった。
肉と野菜を炒める時の、あの音と匂い。
それらは、マリちゃんちの昔ながらの広い台所とマリちゃんと弟ふたりのやりとり、
あの日の記憶を一瞬にして連れてくるのだ。今もなお。