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2F/当番ノート

何度目かのスタートライン

当番ノート 第5期

最近、わたしはめっきり自信というモノをなくしてしまっている。
これまで、無意識に持っていた価値観みたいなものが、もの凄い勢いで音を立てて崩壊していくのを感じている。
これまでゆっくりとそれに対して考えを持つ機会を持ったことのないものが、どんどん情報として文字(言葉)というもので入ってきて、まだ自分がそれに対して何の考えも持たない無防備な状態の時に、わたしの中で芽を出し、根を張ってゆく。
しかもそれは、もしわたしが、仮にそれに関して一歩早く考える機会を持っていたならば、思い当たっていたであろう以外の答えであり、わたしの思い当たるであろう答えを真っ二つにするように成長してゆく。

「そっちの方が、確かにそう思う。」

それに、もうこれに関しては乗り越えたのだ、と思って自分を信じ切っていた部分で、見事に裏切られてしまい、目の前が真っ暗、というのを経験した。
自分ですら自分をこんなに打ちのめすものなのかと本気で恨めしく思った。

「頭でどれだけ大丈夫と思っていても、何度シュミレーションを重ねても、咄嗟の時には何も出来ないものなのか。」
「今までの努力は何だったのか。何故にこんなに弱いのか。」

そして、苛立ちからか、色々なものを否定したくてたまらなくなっている。

「そんなものは幻想だ!」
「見なきゃならないものを無視して、理想ばっかり見やがって!」
「そんな事が赦されるとでも?何様のつもりだ!」

様々な否定の先は他人であり、そして自分自身である。

それを信じたり夢見れる他人に対する嫉妬であり、見たいのに見れないジレンマであり、関係ない苛つきの八つ当たり。

そこまで分かっていても尚腹が立つ。
何も提示できないジレンマを、否定の提示では解消できない。

否定することは簡単で、誰にでも出来る。

そうして落ちこみは更に加速し、もはや自分が何をしたいのかもわからず、自分の好きなものっていうのも何だったのかイマイチわからなくなってゆく。

胸を張れることがどんどん無くなり、自信がないことに対する自信だけが確信を持ち、それは最低だな、と、どこかからとどめの一発。

痛い痛い心、というのを表現するのは自慰的で、ある種のナルシシズム。

中途半端に残った理性は、幼稚な自我を少し上方から見下ろして、でもどうすることも出来ずにいる。

それでも変わらず、作っては壊し、という作業を繰り返す。

全力で作ったモノをあっけなくぶっ壊す。

自信なんてものはもとからそう持ち合わせてはいないのに、この3つのコンボで完璧に消沈。
完全に勝手。

そのくせ横目に、楽しそうにものをつくるひとに憧れる。

彼ら彼女らは、勿論沢山苦しんでいる。

それでも、楽しそうに目にうつる。

苦しむ事を厭わず、作りたいその先のことを、いつも一番に考えているように思う。

自分も昔はそうだったように思う。
作ることに夢中で、作ることしか無く、一心に作りたかった。

作っては壊す、という方法ではなく、ひたすらに作り続ける事で見いだすことが出来ていた。

人の前に出す、という事を考えるようになって、わかりやすくするために削り出すことや、核を置くことを自分に義務づけるようになった。

それは結果としては見る者に全てを委ねる覚悟を持ちながらも、自分の中にはひとつ向かう先を確立せねばならないことで、
当たり前だとわかっていながらにも、苦しいと感じてしまう事だった。

頭で知っていることと、実際に感じるのは大きく違って、こうして書いてしまえば今更過ぎることをなんで今こんなに苦しいのかわからない。

本当は、笑顔で人前に立ちたいのに、それが酷く難しい。

笑顔で過ごす、という事の難しさを、作ることだけではなく、生活全部に於いて、難しいと思ってしまう。

でもそれは、自分に限ったことではなくて、きっと誰しもどこかしら、歯を食いしばって笑っていたり、笑って生きるための努力というものを怠らない生活をしている。

敢えて痛みを感じて、自己罰を与えるよりも、笑顔ひとつ貼り付ける強さをもたなくてはならないと思う。

格好悪いけれど、今の僕はこんなです。
このスタートラインは初めてではないのに、何度でも戻ってしまう弱さが、まだ消えないようです。

それでも、まだこれから笑いたいのだと、そう思って、また戻るかもしれないスタートラインを、今日もドン、と飛び出してゆきます。

浅田 泉

浅田 泉

こんにちは。さようなら。雨の隙間から明るい空を見上げるためのにわか雨。そんなものに用があります。

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