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2F/当番ノート

東京の空の下。

当番ノート 第5期

東京に出て半年が過ぎた頃だった。

二人展も終わり、
日本中のワールドカップ熱も下がってきた頃のこと。

秋になり、私は暗室にも通わなくなっていた。

仕事を探し始め、決めたアルバイトは配膳の仕事。
あの、結婚披露宴の場でサービスをする。

結婚式というものが好きだった。人の結婚式に、よく呼ばれていた。
重なる時にはひと月に3本など。まぁ、それはまだ東京に出る前の話だが。

その結婚披露宴での仕事。
上京する前から通っていた場所、台場。
台場にそびえ立つ、あのホテルが好きだった。
アルバイト情報誌で、そのホテルの名をみつけ、
その仕事自体にも興味はあったが、
その場所で働けるというメリットを選んでいたようにも思う。

面接の結果、人員不足な業界なのか、すぐにその仕事に就けることになった。
サービス業にしても、製造業にしても、なんだってそうなのかもしれないが、
普段、自分が仕事せず過ごしているのを表側とすれば、
仕事をする、働くということは、その裏側に配置されるような気がしている。
こっち側とあっち側、でもいい。自分が今いるのが、こっち側になるが。

今まで、表の整えられたキレイな面にしか触れていなかったことに気づかされる。
どれだけその、裏で働く人たちによって、あの披露宴が支えられているのか、がわかった。
挙式、披露宴というものはお金がかかるものだが、
それに相応した仕事を、お金をいただくその人たちはきちんとこなしていたのだ。
まずは、そのことに深く感動した。
各々がプロ意識を持って動いている。

新郎新婦の、人生に一度(になるであろう)そのイベントを成功させるべく、
キャプテンを始め、そこで働く人たちは、
その短時間、集中し、自分のするべきことをこなしていた。
そんな場で働く人たちだからこそ、
先輩たちは、自分にも人に対しても厳しかった。
注意を受ける度に、これが自分のためになるのだと、実感できたものだ。

住まいは、田園都市線南町田の駅が最寄りで、
2時間かけてその場所へ通っていた。
行きも帰りも満員電車。
そんな状況でも、働けることが生き甲斐だった。

大晦日を狭いワンルームのアパートで、二人で過ごした。
相手は、東京へおいでよ、と言ってくれたあの人ではなく、
岡山出身の年下の子だった。彼は仕事をしていなかった。
冬から春にかけて、私はいろんなアルバイトをかけ持ちし、
食いつなぐような生活をした。
それでも、その頃の私はカメラを手放さず、
休みの日には歩いて出かけ、写真を撮っていた。

やがて春がきた。
5月の連休に入る頃、アルバイトだが、仕事が決まった。
横浜のブライダルアルバムを制作する会社だった。
ようやく定着して働けるって思った。
面接には2冊のフォトアルバムを持参していた。
その2冊は今でも押し入れの奥にしまってある。
あの頃私が生きてた証、のようなもの。
もちろん形(写真)になっていない記憶はいっぱい残っている。

東京で暮らしていられたのは、仕事と人、そして写真のおかげだ。
どれひとつ欠けても、私はそこで暮らしていかれなかったように思う。

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