東の魔女と西の魔女。バハムートとリヴァイアサン。夫の人が私とかおりさんを評してそう言った。
おこがましい。並べられるようなものなど、ないよ。とも思うし面白いとも思う。
(魔女は南の島にもいるのだけど、それはまた別の話)
かおりさんと最初すれ違った頃、私たちは違う名前だった。
その場所で私たちは一度も会話をしなかった気がする。
顔の見えない場所で、名前と言葉だけ何度も見かける。
すれ違う70億人の中の一人と一人。
かおりさんの踊りを3回見たことがある。
最初は大阪の小さな芝居小屋で。そこは私がお芝居をしていたころ(演じる方ではなく、書いて作る方として)良く使った小屋だった。
前に一度だけ行ったことがあったAcruというお店で鳥の形をしたブローチを買って差し入れにした。
でも会わなかった。
二度目は。まだ肌寒い春の始まりの日。
草がぼうぼう生えている外で。
踊るというより、飛んでいるようだった。
しつらえられた舞台とは違って、樹や風や土やそういう空気がぐるんとある場所だったからかもしれないけれど。
踵に、指に、翼があるようだった。
その翼は羽ばたくものではなくて、気流をくるりと取り込んで飛ぶためのもの。
あの場所で煙草を吸う人は、不純物を身体に入れて重石みたいにしないと本当に飛んで行ってしまうんだな、きっと、と想った。
三度目は神戸の舞台。
夏。
そこでは最初に舞台と客席の空気をなじませるために小さなゲームが行われた。
ひとつ目のゲームはすぐに終わって。
ふたつ目のゲーム。
選ばれた観客が紙と鉛筆を渡されてそこに踊りを見て思い浮かんだ単語を書く。
踊りから受け取ったシグナルを言語化して紙をくしゃっと丸めてまた舞台へ投げる。
踊り手はその紙を受け取ってその言葉から新しい踊りを生み出す。
あの時、大勢の観客の中から私が紙を書くことになって。
「おそれ」と書いた。
あれはかおりさんの踊りを受け取って私が書いたのだっけ?
私が書いた文字を受け取ってかおりさんが踊ったのだっけ?
とても肝心なことのように想うのに、記憶からすこんと抜け落ちてしまっている。
おそれ、は、「怖れ」でもあるけれど「畏れ」でもある。
かおりさんの踊りはいつも「続き」のようだ。場所も時間も違って踊りの種類も違うのに。
それは続いている。
熱を私に植えつける。
春の踊りの後、しばらくお風呂場で夜の散歩で指を踊るように動かしてみた。
余韻。かおりさんが残っているみたいだった。
まだ踊っているところを撮れていない。
いつか撮りたいと思う。
かおりさんがバハムートだとしたら、「果て」は関係ないだろう。
果てさえも身の内に。
良太くんは不思議な子だ、と思う。
「子」あつかいしたら怒るかもしれないけれど。
そんなに剥き出しで生きていて傷つかないのかと心配になる。
それでもこの子を憎める人はいないのではないかと思うほど、するりと生きていく。
私は人から逃げる癖がある。自分から曝け出すようにして、だからそれ以上触れるなと柔らかく線をひく。
自分がいることとで誰かを傷つけたくないし、きっと誰かに傷つけられたくもないのだろうと思う。
良太くんはその線を「なんだこの線?」と輪ゴムを拾うみたいにつまんで捨てる。
それは誰に対してもそうなのだろうと、彼の周りを見ていてそう思う。
一昨年の終わりから、今までになく「私にとって重要な人たち」と知り合うことができたのは良太くんがきっかけを作ってくれたようなものだ。
広がっていく。彼には「果て」が無いようだ、と思う。
いわきにはかっこいい女が一人いる。
いい女なだけじゃない。かっこいい女。
それがはるえさんだ。
苦しいことも、しんどいことも、ワインで身体に流し込んで蓋をする。
そして動く。
「見ていないものは話せない」
はるえさんはとても誠実だ。
その誠実さは、はるえさんを苦しめることもあるだろうと思う。
夏。いわきにはるえさんに会いに行った。
夕暮れの海で待ち合わせた。
私の赤い車と、はるえさんの赤い車が、崩れてアスファルトががたがたになっている浜辺の駐車場に並んだ。
私はスカートの裾を、はるえさんはジーンズの裾を濡らしながら、それぞれのことをした。
その後、びゅんびゅん飛ばすはるえさんの車の後について、お酒屋さんでたくさんお酒を買って、宿へ行った。
湯本温泉にあるその宿は地震で半壊したので格安な代わりに従業員もいなくて。
特別にはるえさんの友人として泊めてもらった宿だった。
従業員さんが居ないからご飯は宿では出なくて、外の中華料理屋さんに食べに行った。
やたらと量が多いその中華料理屋さんでは隣では原発作業員の人たちがご飯を食べていた。
宿でお酒を飲みながら話をした。
今想うこと、感じていること。
見たから話せるわけではない。
それでも自分で見なければ納得がいかない。
だから警戒区域に入った。
同じように警戒区域に入ったけれど、私が見た風景とはるえさんが見た風景もまた違うのだとも思う。
次の日も海へ行った。
一番好きと言うその海はさびしいハワイみたいな海だった。
ここは線量が高いからあまり入る人はいないと言われた海に足を浸けた。
はるえさんはきっと「果て」があると言われたらそれを見に行くのだと思う。
この記事は、ここに文章を書くと決まった時から書きたかったもの。
アパートメントの2人の管理人さんと1人の用務員さんの話。
誰かの話を書くということは、その人の話を書いているようで自分のことを書いているのだ、とも思う。
それはいつだって鏡のようだ。
私にとって「果て」とはなんだろう。時々感じるもの。隣にあるのに見えないもの。
触りたくて時々泣きそうになる、もの。
人との関係は、川の流れみたいに変わっていくのだと思う。
一定ではない。
それは時折寂しさや痛みを伴うけれど、同時に嬉しいこともたくさんある。
もう傷つくのを怖がって出逢うのを恐れるのはやめたいんだ。
会っていても出逢っていない人がいる。
「出逢う」というのは「すれ違う」のとは違う。
あなたを、君を、もっと知りたいのだ。私は。