あの日もとても寒かった。春の欠片も見えず。
3月で卒業する生徒さんはもう課題に入っていて。
私はその時間がとても好きだった。教えたことをそれぞれが消化して形にしていく時間。
Webデザインを教えているその教室はパソコンと人がぎゅぅと詰め込まれていて。
排気熱と体温で本当はそんなに寒くないはずだった。
なのにあの日は足先が凍りそうなくらい寒かった。
考えてみるとあの日のことを誰にも話したことが無い。
それはとても不思議なことだ。
その先に起こったことを考えるとそれはとてもちっぽけで話す意味など無いように思えたからかもしれない。
もしくは話すことが怖かったからかもしれない。
2011年3月11日14時46分―――。
大阪では揺れはとてもゆっくりときた。
私はそれを自分の眩暈かと思った。
地面が揺れているのか自分が揺れているのかわからなかったのだ。
窓を見るとブラインドの紐がゆっくりと揺れていて、眩暈ではなく建物が揺れていると気づいた。
東北に生まれた私は地震には慣れていたし、西に住み始めてからすぐに阪神大震災を経験していたので揺れ自体は大したことが無いと思った。
でも、嫌な感じがした。
「宮城 震度7 福島 岩手震度6」Yahooニュースに赤い文字が走った。
iPhoneのメールの履歴を見ると15:01「地震大丈夫?」と福島に居る両親に向けて送っている。
帰ってきた返事は
「やばいかも。お母さんに連絡取れない父は大丈夫」
と父からのみ。
その日どうやって家に辿り着いたか覚えていない。
テレビではヘリコプターから撮られている地平が茶色いゆっくりとした何かに飲みこまれていく様子が繰り返し繰り返し流れていた。
それは海にも波にも水にも見えなかった。茶色い何かが地を侵食して行っていた。
夜、メールで父と母が合流できたと連絡が入り無事がわかる。
ライフラインは全て止まっているとのこと。
今どこに居るのか、周りの人は無事なのか、聞きたい話はたくさんあったけれどそこから暫く連絡は途絶える。
11日21時。福島原発の公式会見。「半径3km以内の皆さんには退避を。3kmから10kmの住民の皆さまには屋内待機。まだ放射能漏れ(放射性物質の漏れ)はなく念のための措置なので、慌てずに」とのニュースが入る。
12日17時。福島原発、1号機が水素爆発したとのニュースが入る。
そこから福島は津波と地震だけじゃないものに飲み込まれていくことになる。
あの日から1年9ヶ月。幾度か私は福島に帰ったり、行ったり、する。
そこに住んでいるわけではない。家はあるけれど帰るだけでもない。「行く」というニュアンスが入ってしまう。
「行く」私は傍観者だし部外者でしかないのだとも思う。
今年の2月。警戒区域に入った。
揺れと波で崩されたままの街。
そして原発入口。40μSv/hの場所。
私はずっと憤りの中に居る。
ぶつけようのない。
ぶつけどころのない。
原発は無くなって欲しい。
けれど、東京や大阪で行われる原発反対デモにも懐疑的だ。
それはお祭りじゃないと言えるのか?
ひどいものになると葬列デモや奇形児コスプレデモなんていうものも聞く。
誰かを「不幸」にしなければ成り立たないものであればしなくていい。
大阪で岩手県の瓦礫の焼却が始まった。
今まで興味が無かった風の人たちが反対を訴える。一部の反原発派の人たちは焼却で具合が悪くなったと騒ぐ。
それで鼻血が出るなら、私はもう死んでるよバーカ、と私は心の中でひとりごちる。
でも、それでも、私もやはり部外者だ。
そして口をつぐむ。
―――誰かに向けて投げる言葉は、天に向けて吐く唾のように全て自分に戻ってくる。
私は何をしている?私は何ができる?私の言葉は誰かを傷つけていないか?私の写真は誰かを傷つけていないか?
震災後、波にさらわれた写真を修復するプロジェクトに参加した。1年9ヶ月たって送られてくる写真の数は少なくなった。
震災後、福島で放射線量を計測するプロジェクトに参加した。1年9ヶ月たって計測から場づくりにプロジェクトは変化した。
少しずつ変わっていっている。
それが時間が経つということなのだと思う。
でも、まだ震災は終わっていない。
浪江の誰も入れなくなったお祖母ちゃん家を想う。
差出人がこの世に居なくなった手紙を読み返す。
あの日亡くなったのは、あの日から続けて亡くなったのは名もない1万8877人ではないのだ。
誰かの父親だった、誰かの恋人だった、ゲームが好き、アイドルが好き、学校に行ってたわいもない話をする、職場に行って日々の業務をこなす、それぞれの人生と物語を持った一人一人だった。
冬と春に南相馬へ。
夏にいわきへ。
海はどこも同じで、どこも違った。
あの日「この道を左に逃げた人は助かって、右に逃げた人はみんな亡くなった」と教えられた。
生きている人間は進まなければいけない。
否応なしに。進んでいく。
ずっと震災のことを感傷的に書くことを避けてきた。
誰も傷つけたくないから。そして感傷的に書くことによって生まれる誤解や軽んじられることを避けたかったから。
だけど今想う。
どうか私の故郷を、切り裂かないで。分断させないで。
そしてそう言いながら憤りながら、それでも私は信じているのだ。
人の思いやりを。美しさを。正直さを。誠実さを。
人の、強さを。
今年最後の月命日に寄せて。