「玄関から草どころか木が生えていて」
「じゃあ下の方はもう誰もおらんのやな」
初めてこの島に来た時、夜の暗さにびっくりした。
方向は道の灯りではなく、音で判別するものと初めて知ったのだった。
波の音が聴こえる方が海、風の音が聴こえる方が山。
自分と闇の境目は今にも溶けそうで、私は自分の肩を自分でぎゅっと抱いた。
夫の人が生まれ育ったこの島は今はもう190人しか住んでいない。
公式での記録がそうなだけで、籍だけおいて島の外に住んでる人間もいるから体感では100人ちょっと、と、おじいちゃんは言う。
コンビニも信号機も交番も無い島。
島にはおじいちゃんとおばあちゃんが2人で住んでいる。
おじいちゃんとおばあちゃんは、夫の人のお父さん方の両親で、お父さんは海で亡くなってもういない。
「階段を上がる音が聞こえてん」
お父さんが海で事故にあって船が見つからぬと騒ぎになっていた朝、うとうととした時に足音が聞こえたと夫の人が教えてくれた。
いつものように朝の漁から帰ってきて二階にあがる足音、
その足音を聞いた日、遺体は見つかった。
島にいると生き死にの話が気軽な世間話のように出てくる。
海に落ちて死ぬ人、山で行方不明になる人、肝臓を壊して亡くなる人。
3年前この島は瀬戸内国際芸術祭の舞台となった。
「男木島」と聞いてわかる人が増えたのは芸術祭のもった部分が大きいように思う。
芸術祭は賛否両論だったけれど男木島では受け入れている人の方が多かったように感じる。
このままでは閉塞して行くだけの場所に、船に溢れるほどの人が来てくれる。
島のおばあちゃんたちは元気で。
去年の夏には「漁協の前の広場でビアガーデンを開こう」プロジェクトが発足していた。
それでも陽の部分ばかりではない。
来る人が増えたからと言って住む人間が増えたわけではない。
10年前高松の花火を見るのに忍びこんだ保育園は、今は猪の巣になっているからと言って立ち入り禁止になっていた。
歯が抜けるように人の住む家が減って行く。
「玄関から草どころか木が生えていて」
「じゃあ下の方はもう誰もおらんのやな」
人が住まなくなった家はあっという間に荒れる。
男木島には砂浜が少ない。
「30年くらい前に砂を売ったんだよ」
と教えてもらった。
関西空港が建つ時に、埋立て用に砂を売ったのだと言う。
海を埋立てるのに海の砂を持って行く。
関空の第一期工事では1770万立方メートルの砂が必要だった。
香川県ではそのうちの560万立方メートルを提供した。
そして男木島の砂浜は2kmから200メートルになり、浅瀬では魚が捕れなくなった。
私はその関西空港を使って去年イギリスへ飛んだ。
砂を売った島の人は、珍しく入った大金を大体は呑んでしまったと言う。
「おやじが死んだ歳以上に自分が生きられる気がしない」
と言う夫の人は、生き死にを知っている。
それは頭で考えるものではなく、身をもって知っているのだと感じる。
私は夫の人から「食べること」と「生きること」を教わった。
結婚してから初めてこの島を訪れた時、おじいちゃんが「『ただいま』と言って帰ってきなさい」と言った。
結婚が何か、なんて今でも私はわかっていない。
良い妻かと問われたら残念ながら決してそうじゃない自信がある。
でも、故郷がひとつ増えた、というのは幸せな事だ。
福島と男木。
2つの故郷。
どちらも簡単じゃない問題を抱えている。
その問題は全く違うようで、実は根っこは同じように感じている。
砂を売った海。
原子力発電所がたてられた海。
そうしなければいけなかった場所を弱者と言うつもりはない。
例えば「都市=強者、田舎=弱者」という構図を描く事に意味は無いと思うのだ。
むしろ単純化する事によって見えなくなるものがある。
福島も男木も、住む人は良く笑う。
そこに意味はあると想う。
人が笑う場所は、人が作る。
だから、考え続けたい。考えるだけじゃなく動く。
身体のあるうちにできることをし続ける。
柔らかい暖かい循環を描きたい。
私は支えられて生きている。
ここまで誰一人として関わらなければ良かったと想う人はいない。
誰一人欠けていても「私」になっていない。
これはすごいことだ。
私に出会ってくれて、関わってくれてありがとう。
生きるという事を教えてくれてありがとう。
明日のことはわからない。
わからないからこそ、今日を生きる。
海から風は生まれて海へ還るという。
優しい風ならそれは人を包むし、向かい風だったとしてもそれは人を強くする。
どうか、あなたに、私に、今日も風が吹きますように。
2013年、1月1日。新年によせて。