「21世紀は、27歳で迎える」
これは僕が小学生のときに、
ドラえもんに出てくるような未来の世界を思い描きながら、
指折り数えた魔法の数字である。
同時に、その記念すべき年明けに27歳になっている自分を想像した。
この「21世紀は、27歳で」のフレーズはその数字の単純さゆえに、
大人になってからも思い出すほどずっと僕の中に残り続けていた。
ああ、あと何年か、と。
そしてやってきた2000年の暮れ、
僕はこのフレーズを思い出しながらひとり笑っていた。
なぜなら、そのとき僕は26歳だったのだ。
ずっと27歳になっているはずだと思ってきたのに。
1974年4月生まれの僕は、21世紀を迎えるとき正確には26歳なのである。
2001年のうちには27歳になるが、それは4月がこないとならない。
当たりまえである。
些細なことだと思うかもしれないが、そのときの僕にとっては結構大きなことだった。
足し算の繰り上げミスみたいな現実の中で、
二十年近くも生きてきたのだと知ったのだから。
でもそのときの僕は、間違いの世界で生きてきたという落胆より、
ある種の解放感とよろこびを感じて、
なんだか無性に可笑しかったのである。
こうだと決まっていることが目の前で壊れるのはちょっと怖い。
僕らは、種の保存を命題としている生きものだから、
経験や知識という、すでに知っているものに寄り添うことで、
生き残る可能性を高める選択を自然と大切にする。
それを否定する気はまったくない。
たけど一方で、まだ見たことがないものへの好奇心や、
何だかわからないものへの憧れも存在して、
時に僕らを強烈に沸き立たせてくれる。
僕が2000年の暮れにひとり笑っていたように、
決まっていると思い込んでいたことがひっくり返るのを見ることは、
思っているよりも、怖がってるよりも、ずっと楽しいんじゃないかと僕は思う。
“ベートーベンをぶっとばせ”
1950年代、これでよいとされてきた音楽に対して、
疑惑と反発を持って皮肉まじりに歌ったチャック・ベリーの曲の邦題である。
ビートルズをはじめ多くのロックバンドに歌われてきた。
“ベートーベンをぶっとばせ、ベートーベンをぶっとばせ”
きっと、今こうしている僕のまわりも、
彼らが皮肉ったベートーベンのような存在で溢れている。
僕はその中のひとつでも多くがぶっとばされるのを見てみたい。
なんなら自分でもベートベンのそのほっぺたをぶっとばしてみたい。