朝起きると両親の枕元にも小さなプレゼントがあった。
クラスのみんながサンタクロースの正体についてあれこれ言ってるとき、
「何をとんちんかんなことを」とまったく聞く耳も持たないほど僕はその存在を信じていた。
わが家のクリスマスの朝は、子供たちだけではなく、
親の枕元にも同じようにプレゼントがおいてあって、
パジャマ姿のまま家族みんなで大喜びしてたのである。
いまはなんと巧みなサンタクロース演出であったろうかと思う。
その他にも、おそらく父親が頑張っていたのだと思うが、
サンタクロースから電話がかかってきたり、
手書きの手紙が届いたりしていた。
お陰で僕はすっかりサンタクロースの存在を信じきってしまい、
クラスのみんなのサンタクロース疑惑などそっちのけで、
小学校を卒業するくらいまでクリスマスを謎めいた魔法の季節として過ごせた。
クリスマスは素敵だねとかそういうことが言いたいわけではない。
ただあの時、両親が僕らを喜ばせようとして
してくれたことすべてに感謝しているのである。
楽しかったクリスマスのその風景は、
三十年たったいまでも記憶の絵として僕の中に残っている。
その細部をまるで写真を見るように思い出せるくらいに。
写真を撮ろうと家族にカメラを向けるとき、
ときどき頭のすみにそんなことがよぎる。
いま子育てに奮闘している妻が
一段落ついてふと昔のことに思いをよせるとき、
いま自我の芽生えと戯れる小さな娘が
大きくなって幼かった頃のことを思い出すとき、
いったいどんな記憶の絵を見るのだろうかと。
きっとこれから僕ら家族には色んなことがあるのだと思う。
めんどくさいことや、忘れてしまいたいこと、
ひょっとしたら死んでしまいたいと思うようなこともあるかもしれない。
その影が彼女たちの記憶の絵の中に写りこんでいる可能性はきっとある。
でもそのそばに小さくてもいいから、
僕にとってのサンタクロースのような温かい光があって欲しいと思うのだ。
おこがましいかもしれないが、僕は彼女たちの人生に関わる人間として、
少しでも彼女たちの絵の中にその光を灯したいと思う。
僕は今日も家族にカメラを向けながら、
彼女たちがいつか見るであろう記憶の絵を想像するのである。