ぼくらの生きるこの世界は
捉え方で、見え方で、伝わり方で
どうにでもなるし
どうにでもなってしまう。
結局ぼくらは、自分が可愛くて仕方がない。
現代をある程度不便なく生きれている人は、
そんな思考が、どこか頭の片隅にあるはずだ。
もしくは、片隅にも置けないほど忙しくしているか。
世間体、立場、環境、在り方、居場所、偏見、生き方、存在することについて。
あらゆるテーマが転がるさなか、
ぼくらは、いつの日か産まれてきた。
ぼくらはそのとき、当たり前のように産まれてきた。
自分に似合ったことを言って
自分に似合った居場所を探して
なんだかわからないうちに、自分に似合った生活を送る。
すごく大きな夢を抱くひともいるし、
ただ坦々と過ごしたいひともいる。
自分のエゴを他人のエゴと言うひともいるし、
見当たらないくらい無垢なひともいる。
「良くあること」とか「ありきたりなこと」とか
「普通」とか。
世の中の大半はそんなメディア語録で
「良くあることで、ありきたりなことで、普通なこと」になってるけど。
本当はみんな一緒で、同じで、なんら変わりない。
同一で、単一で、並列な輪っかなんだ。
予想を遥かに超える出来事は簡単に起きるし
予感に携わる出来事はいずれ向こうからやってくる。
ぼくらはここにいる以上、
ここにいることしか出来ないんだから。
唯一ぼくが、大切に感じる時間帯がいくつかあって
それは人それぞれ見事に違うと思うから、具体的には言えないけれど
「時間の流れがほんの少し、滑らかになるとき。」
そんな描写を僕は、大切に噛み締めたいと思ってるし、
そうしてる。
だけど、その一方で
時々、ぼーっとしてる時にふと思うことがあって。
ぼくらはずっと、ぼーっとしているんじゃないかって。
その「ぼーっとしているフィルター」みたいなものが
自分のどこかに挟まって、
そんなぼーっとした世界を見ているんじゃないかって。
そんなことを思うんです。
ぼーっとしている、そんなときに。