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2F/当番ノート

彼岸花と8年のあとがき

当番ノート 第33期

嘘を書かない、それが難しかった。

9回にわたって、中学と高校時代を過ごした下宿のことについて書いた。本当に居た人たちのこと、本当にあったことを、本当にあのころ感じていた通りに。それが、連載を始めるときに決めたことだった。

卒業して8年経ったのだ。いま下宿について書くということは、以後それが、私にとっての下宿の記憶になっていくということだ。書くならば、書いてしまうならばできうる限り、どんどん弱っていく記憶をできるだけ直接撫で、その触感をとどめておくような記事にしなければと気負っていた。

私は、何事もすぐ大袈裟に盛りたくなる、あるいは物事をすべて因果関係の秩序のもとに整理したくなる性癖がある。下宿にいたころ、三日坊主を繰り返しながら断続的につけていた日記でさえ、端々に照れや見栄が垂らされている。

だからこの連載中は、フィクションスイッチが入りそうになったら一度停止して、粘膜の奥に問いかけた。これは本当に、当時の自分に突きつけても、いかにもと頷いてもらえる表現か。

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・・・

ずっと、下宿のことを書きたいと思っていた。普通の高校生とはちょっと違う共同生活。どたばたの日常事件だったり、行事だったり、下宿という場で繋がれた家族ではない家族たちのこと。そういうものを書いたら面白いはずだと。だから連載前は、あれもこれも、紙幅が足りない(ネットだから紙幅はないけど)!うおお、回数が足りない!となるかと想像していたのだが、杞憂だった。

いうほど、覚えていなかったのだ。あのころ、何をしたか。何を話したか。 誰がどんなふうだったか。

記憶の隙間を言葉で埋めて、一面の美しい思い出として綴ることはしないと決めていたから、結局文字に落ちたのは、エッセイというにはぼんやりした、食卓がどうとか、何も考えずに歩くこととか、好きなバンドの話とか。

下宿の思い出が「あふれる」というよりは、染みだしてくるような感じだった。そういえば、あーこういうことが、好きだったなー。そう、あのころ「やったこと」よりも「好きだったこと」について、考えていたことについて、よく書いた。

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・・・

昨日久しぶりに、高校のときの日記を読み返した。そこには、その日に何を食べたとか、体育のソフトボールでフォームが悪すぎてつらいとか、食卓でポテチを食いまくっているとか、まこと些細なことが連なっている。一方で、まだ十代で、若いといわれる年齢であることを、やたらと意識した必死さな言葉が並んでいるのが可笑しい。

2007年10月23日。
この青春期を書残しとかんと大変なことになる気がする(笑。

……と、こんな具合に。

高校のとき、中原中也の詩が好きで、一時全集を枕元に置いて寝ていたことがあった。特に気に入っていたのが「盲目の秋」という一編で、冒頭はこうだ。

風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。

この詩は、全編を通して読むと哀しい秋の響きがするけども、この一節だけはなんだか茫洋と、ひらけた空間にすっと立って、清濁の決意をこめて腕を振って歩いていくような感じもして、とても好きだった。下校中、刈り取られた田んぼに向かい、一人大袈裟に腕を振ってみたこともある。そういま私は、無限を前にしているのだと。

でもそれは空元気でもあった。逆説的だけど、いつ尽きるともわからない無限が広がっている限りは、せめてそのあいだは、大手を振って歩いていたいと、常に後ろを振り返って、背伸びをして先を窺いながら、形だけ腕を振っているような感覚だった気もする。

下宿を出て新しい場所に行く未来を夢見ていたくせに、時間がすぎること、いまいる場所を出ることに、不要に怯えていた。

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2007年10月29日。
大人になるというのは、正直全然よくわからないコトで、だけど最近なんとなくふっと、自分が「大人」になって今を振り返っているような気持を疑似体験するときがある。あ、大人ってこんなかんじかなーって。率直にいうと、それはすごく気分が悪い。(略)今笑ったこの瞬間を、いつか目を細めて歌うなんて、したくない。未来の私は、これよんで、切なくなる?どうかそうでありませんように。

ちょうど10年前の自分は、随分としみったれたことを書いていたようだ。おかげさまで10年後の自分は、その憂鬱をネタにまた一本ものを書いている。ありがとう。とりあえず26歳、全然切なくない。

連載では、過去を書いているようで結局、ずっと今を書いていた。今をダシに過去を書きたいと思っていたのに、逆、記憶をよすがに今を書くことになっていた。ただ結果的にそれが、嘘誇張なく過去を書くいちばん誠実な方法だったかもしれない。とも思う。

風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
(中略)
私の青春はもはや堅い血管となり、
その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

top

下宿時代は私にとって、特殊で愉快な人生の春ではなく、現在の私の嗜好や思考を育てた大切な、所詮中継地点だった。

今はもう、ちらちら後ろを気にすることもなく。青春、夕方、田んぼに咲いていた彼岸花はいまや確かに私の血管となった。そして目の前には依然、茫漠の無限。

藻(mo)

藻(mo)

フィクションの好きな会社員。酒と小説と美術館、散歩、そのために旅行する。1991年早生まれ。

Reviewed by
中田 幸乃

においを感じる連載だった。

記憶なんて曖昧なものなのだから、嘘をついたって、脚色したって誇張したって、もしかしたらその嘘が本当として塗り替えられることだってある。
それに例え嘘をつかなくても、何かを語るとき、選ぶ物語があれば捨てる物語があるのだ。
それがどんなにささやかなことでも。

だからこそ、「嘘を書かない」という姿勢で書かれたゆきみさんの文章が好きだった。
風にそよぐ花びらに触れながら、食卓のにおいを嗅ぎながら(おばさんの料理がなんともいえなかったというエピソードは特に気に入っています)笑い合いながら、時折、ぶらぶらと振った足が目の前に座る人とぶつかったりしながら、ゆきみさんと一緒に、風景の中を歩いているような時間だった。

自分の記憶に混じって、ふいに、ゆきみさんの下宿生活を思い出すことがあるような気がする。
においは、ふらりと蘇るものだから。

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