母の財布には、祖母の証明写真が入っている。
なんてことのない、4cm✕3cmの緊張気味な祖母の写真。
「なんでその写真なの?」
なんて声をかけたこともあったけれど、
それは野暮な言葉だったかもなあ、と今は思う。
◯
去年の秋、久々に母の故郷に足を運んだ。
そこは日本から8時間ほど飛行機に乗ったところにある。
年中真夏の熱い国。
祖母が亡くなるまでは毎年、夏は祖母の家が私の家で
日本で働く父に代わり、叔父が私の父だった。
叔父の財布の中には、
幼い頃の私と妹の写真がおさめられていて、
「ちょっと前まではこんなに小さかったのに!」などと
財布をぱたぱたさせながら よく茶化してきた。
久しぶりに再会した叔父は、変わらないお調子者の叔父で
少しだけ大人になった私に、あの財布の写真を見せてヘラヘラ笑った。
いつもなら「も〜!からかうなよ」とかなんとか言いながら、
ぼかぼか殴ったりするところだけれど、今回はただ静かに笑った。
もう何年も経っているのに、
変わらずその写真を持ち歩いている叔父の気持ちが嬉しくて、可愛らしく思えて。
そして、滅多に会いにいけないことが寂しくて、申し訳なく思えた。
あの人たちの大切にしている写真がとても好きだ。
いつまで経っても入れ替えられることのない財布の写真も
真夏の光線にやられかけたアルバムも
壁に貼られた解像度ぎりぎりの携帯写真も
叔父のクローゼットにしまわれたインデックス写真も
なんてことのない写真なのに、特別に見えるのはとても不思議だ。
それでもとても惹かれるものがあった。
叔父も母も、特別写真が好きなわけではない。
ただ、そこにいる誰かが愛しいから、
撮ったり持ち歩いたり飾ったりする。
きっと
いい写真か、そうでもない写真か、
なんてことは二の次なのだと感じた。
◯
祖母は私が写真を撮るようになる前に亡くなった。
もしも、もう少しはやく撮るようになっていたらなあ、
なんてことをどうしても、母の財布を覗く度に思うけれど。
多分そんな気持ちも、母には必要ないのだと思う。
母にとっては、
どんな素敵な記念写真だろうと
淡々とした証明写真だろうと、
どちらでも同じ。
それは
母国から離れて暮らす母にとってのお守りのひとつで、
写真の向こう側に見えるものは、ぼんやりとした祖母との記憶。
それがあれば、十二分に強くなれるのだと思う。
今日の日付を目にして思ったことは、
できるだけ多くの人に
そんなお守りのような何かがあれば良いなあということだ。