三分、
と聞いて思い出すのは、カップラーメン、ウルトラマン、ムスカの台詞、
それから某調味料の料理番組である3分クッキング。
ある冬の日、
なんとはなしについていたテレビ画面に映ったのはなんだか時間のかかりそうな煮込み料理だった。
大丈夫なのそれ、あと二分ちょっとで完成するのとひやひやしていたら、
「これを三時間煮込んだものがこちらです」でーん!
という効果音はなかったにせよ、助手と思しき女性が台の下から熱々のお鍋を取り出してそう言った。
あの衝撃といったら。
のちにこれってありなのどうなのと家族と友人数名に訊ねて、
あれは三分で料理を作る番組ではなくて、三分でレシピを紹介してくれるものなのだと知った。
そんなのあとだしじゃんけんじゃないか、何時間も鍋の火をつけていられるのならそりゃあ手の込んだものも作れるだろうし美味しいに決まってるじゃないか。
三分で作るのだと思い込んでいた当時確か高校生だったわたしは、恥ずかしさも相まってぐだぐだそんなようなことを言った。自分が煮詰め過ぎて辛くなったスープや原形をとどめていない煮物なんかを作る前の話。
職場の先輩がたを眺めていると、
自分が10の時間と10の労力を使っていることを3ずつくらいでこなしていることがよくある。
どうやったらそうできるのだろうだとか、わたしにはきっとそういう力がないんだとか、
顔を上げたり目を伏せたりをぐるぐる繰り返して、このあいだ「これはあれか!」と腑に落ちた。
三分のためにあらかじめ煮込まれていた三時間。
三時間でいいのかどうかの検討やら、レシピそのものの研究やら、それを三分でどう見せるのかの構成やらなんやらが、まったく見えていなかったわたし。
わたしがその場に現れるずっと前から彼らが積み重ねてきたもの。
あとだしじゃんけんじゃなくて、手はもうずっと前からそこに出されていた。
失礼にもほどがあるよなあと自転車を漕ぐ帰り道で苦笑した。
それから、
そんなこと言ったら世界はそういうものばかりだとびっくりした。
頬に解ける雪に気づいた瞬間に、わたしの世界に雪が現れる。
「ああ雪だ」と思う。
でも雪が降るまでには、上空の温度や空気の流れやそのなかに含まれる水分量の推移があって、その水分の始まりはさて地球の誕生までさかのぼらねば判明しないかもしれない。
それを雪と呼ぶのだと、言葉と現象と白い欠片の記憶とをわたしのほうでひとつなぎでくくっておくまでの時間もあって、わたしは雪をいつ覚えたのかを思い出せない。
わたしの絵を今目の前で見ているひとがいる。
でもそれをそこに置くまでには、その絵を描く時間とその絵につながる絵を描いてきた時間とその間目にした絵が描かれるまでの時間があって、絵を描くたび探すように見上げた星の光は何億光年も前のものかもしれない。
見るのに十分な明るさを太陽の光が八分とすこし前から届けていて、そのエネルギーが生まれるに至ったのはさてどのくらい前なんだろう。
当たり前の顔をして日々の風景を成しているものすべてが、当たり前の顔をするまでの時間を背景に持っている。
その時間をあらわす単位をわたしは持っていない。
それでもって、その背景を考えなくたって生きていけることを、すばらしいなあと思ったりするのだけど、
それはまた別のお話。別のときに話すとしよう。
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長々と書いてしまいましたが、はじめまして。もうりひとみ、といいます。
アパートメントに住んでみない?とお話をいただいてから、
そんなようなことを考えたりしていました。
背の低い少年ハカセと黒いウサギのボクジュは、アパートメントへの入居を想像していたらぽんとでてきたふたり。
せっかくなのでこのふたりを見守りつつ、芋づる式の頭の中をそのままお見せしつつ、二ヶ月を過ごそうかと思います。
よろしくお願いいたします。
(ちなみにボクジュは当初イカスミという名前でした。)