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2F/当番ノート

桜のはじける音を聴いた

当番ノート 第13期

桜

「海の水はどこで生まれる?」

広い理科室。班ごとに座った丸椅子と大きな実験用の机越しに、教壇を見やる。今からマジックでも披露するかのように手を合わせ腕まくりをした先生がそう言った。
おのおの生徒は答えを口にする。川の上流、雨、海の底。
低いゆったりした声で先生は答える。

「全部違う。生まれない!」

きょとん。

質問の意図も答えもわからずざわつく生徒を前に、説明がはじまる。
水のもとになる原子の総量というのはある程度決まっていて、そう簡単に地球の外へ出たり外から入ってきたりするものではない、という。
「宇宙飛行に持っていく分は?」という質問に、あんまり持ってでられたら困るな、とにやり。
だから海の水は、どこかで発生するのではなくて、ただぐるぐると旅をしているだけなのだと告げられる。

話はそこから、循環する水と環境問題に発展して、蒸発するときには水は濾されるようなものだから、海はどんどん汚れていくのだと結論へ達したのだけど、
わたしは水が生まれないことに静かに衝撃を受けていた。

15年も前のその日どの席に座ってどの窓が開いていて、どこから先生を見たかまで覚えているのだから記憶というのは不思議だ。
ひねった蛇口から出た水をまじまじと見つめて、それがどこかを旅してきたものだというのがどうしても理解できなかった。
わたしが暮らす土地は琵琶湖の恩恵を受けていて、飲み水に困ったことがなく、必要なときに必要なだけ使えてしまえるものだったからだ。
蛇口の先から飛び出て、わたしが使い、排水溝に吸い込まれるまでが、あるいはタオルに吸収されるまでが、わたしが知りうる「水」だった。それがどうやらそうではないらしい。その瞬間だけ発生するものではなくて、これは、わたしの視界から消えて長い旅をして、その旅の途中のどこをとっても「水」と呼ばれるらしい。

*
*

春の夜。
生ぬるさと、別れと期待と、青い空気の塊が暑苦しい層になって、曲がり角のむこうから襲い掛かってくる。
帰り道、以前から時折見かけていたバットを構える少年、
今日久々にそのスイングを見て、あれ、と思った。
いつのまにやら背が伸びている。
わたしの知らない時間が彼の中では流れていて、その変化は目覚しい。

桜が爆発しそう。
チューリップを植えた鉢が、知らぬ間ににょきにょき生まれた緑の直線に耐えて、踏ん張っている。
時間。
という、彼ら。
情け容赦なく追いたてさらい、去ってゆく。
いなくなった頃にようやく思い出す。

ああ、ミヒャエルエンデの話にあったな。
目の前を去ったらけして思い出すことのできない男と
目の前にいるときにはけして認知できないのに記憶される男。
読み手にだけ記憶される前者と、読み手にすら、出会っている瞬間は知覚できない後者。

*

その背景を知らなくても、わたしたちは笑いあえる。
ほとんどを知らないままで、日々を生きていける。

でもだからこそ、知りたいが生まれると揺さぶられる。
かけられたブルーシートの下を、銀紙の破れたところから染み出すチョコレートを、雑音に紛れ響く旋律を、この水の行方を、
知ろうという意思より先に伸びる手に驚かされる。
知らないままでは生きていかれないかもしれないと思うもの。
どうしたら「知った」と言えるのかわからないことばかり。

*

長い時の先を思う。
蜂蜜の瓶の底を透かして見る景色。
振り返ることでしか触れられないそれ。
どうなっているか、という結果のような通知がほしいのではなくて、
一枚一枚重なっていく層を見たいという深い欲。
それはたぶんきっと、
蛇口をひねった先、だけではなくて、わたしをぐるりとりかこむ水という現象を知りたいと願う欲深さに似てるんじゃないかな。

*

明日がくることを信じて眠りにつくこの驚異的な力のことをなんと呼ぼう。
ただ目の前のことをやっていくしかないのだという、諦めと祝福の布地を重ねて一度に広げたような感覚は。
ゆっくりと、でも確実に伸びるこの手がどこへ向かうのか、まだわからずにいる。
指が触れてはじめて、ああこれを知りたかったのだと、発見するのだろう。

昨夜その音を聴いたことを、開いたつぼみに触れて思い出す。
桜は開花に使うエネルギーのために葉を全部落とすのだという。
わたしの知らない旅がここにもある。
伸びる手をそのままに、わたしも旅を続けようと思う。

また明日

*
*
*

二ヶ月が終わってしまいました。
展示と同時期であったこともあり、信じられない気持ちで何度も日付を見ました。

何かを期待されていたような気負いはあまりなく、うまくはないけれど素直に書きました。
日々積み重なっていく思い出と呼ばれるものにわたしはとても大きく支えられていて、
ここにおいたほとんどの文章がそれであったように思います。
友人が隣のひとの晩御飯を見るようだと言ってくれたのがとても印象に残っています。
たぶんきっとわたしのようなひとはどこにでもいるし、
でもきっとそれはわたしではないのです。
どこかにいる誰かがこんなことを考えて、こんなことがあったなあと思い出して、今日も生きておりますよと、
他愛ないことを言いたかったのかもしれません。(他愛ないことはだいすきです。)

もう終わってしまうのだなと思う頃になってやっとハカセとボクジュが自由に動くようになってくれて、あわてた反面やはり面白くもありました。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
またいつかどこかで、それぞれの旅の途中にお会いしましょう。

もうり ひとみ

もうり ひとみ

絵描き、絵本作家
自転車を漕ぎながら空を見上げるのがすきです。
父と母とうさぎと暮らしています。

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