それは湯気だ。
熱を帯びた時間は姿を変えて、湯気になる。
熱ければ熱いほどたっぷりとそれは湧く。
視界をぼんやりとさせ、はっきりとは見えなくなる。
なんとなく、別世界に連れて来られた気分になる。
つくることは、その湯気をぐるぐる巻き取って1つものに見せること。
何かしらのストーリーを連想させること。フィクションでも、ノンフィクションでも。
自分や誰かの、目や肌や心にすーっと染みこませることができたなら、
こんな自分にも何かできるのかもしれない、と思える。
そうやって湯気はきちんとからだに染み渡っていき、
再びふつふつと熱くなって、私に力を与えてくれる。
◯
さて、つい忘れがちになってしまうことをひとつ、きちんと思い出そう。
私にいちばん必要なものはその湯気の下にあるものだ。
ふつふつとした時間を過ごすことができなければ湯気はたたない。
種明かしをするようで、
それは無粋なことに感じられるのでしょうか?
自分の思いから切り離して、細かく切り刻む。
色を塗り替えて、表に出す。それ以上の野暮なことはしない。
でもそれは
自分自身で口を塞いで体をぐるぐる巻にして、身動きをとれなくするようなことに思える。
おしゃべりな私には、なかなかできない。
そこに思いや物語が存在するからこそ、写真を残すことが好きなのです。
撮ることが好きなのではなく、残すことが好きなのです。
だからあえて、種明かしをします。
1枚1枚それぞれに、熱を帯びた物語がこもっている。
湯気で覆われて別物に見えがちだけれど、はっきりと写った2枚目が我に返してくれる。
もともとの形を崩し、細かく刻んで、色を塗り替えても、
物語それぞれへの愛着を無視することはできない。
撮るために、熱い時を過ごすわけではない。
熱い時を過ごすから、残しておきたくなるのだ。私の場合は。
ここまで記してきたことは、これから記すことがあるからこそなのだ、と
きちんとここで予告しておこうと思います。