こだわりというものが少ない私でも、
時にどうしようもなく興味の湧くものを発見してしまったりする。
手の届く範囲に置いてしまったら最後、
きらきらと輝くお面をそっとはずして、衣を脱がせる。わりと強引に。
その下にある、薄く何層にも重なった皮を一枚ずつ剥いでいく。
本当はどんな姿をしているのか、
どんな形をしている?何種類くらいの形を持っている?
匂いはどうか、味はどうだろうか、手触りはどんなものか、
実はもっと気持ち悪い形をしているんじゃないの?
本当はもっと艶かしい姿をしているんじゃないの?
もっともっと、見てみたい、知ってみたい、
お面も衣も皮も剥がした後に目にしたもの。
それは、私が皮を剥がし続けた対象の芯になっている部分でも何でもなく、
私自身をすっぽりと、はっきりと写す「鏡」だ。
写っているのは素っ裸になった自分で、
剥がしていたのは自分の皮だった。
◯
「そりゃあ、どうみたって鏡でしょう。」
“私しか知らない私”を、いくつかの写真を見ただけで
ぴたりと言い当てる人がいる。
その人がおっしゃるに、私の写真は明らかな「鏡派」であるそうだ。
「鏡派」というのは、
写真を鏡として自分の内面を探り、知ろうとしている写真。
そして、それに対するのが「窓派」の写真。
写真を窓として外側で起こっていることを知ろうとしている写真。
キュレーターのジョン・シャーカフスキーという人が
「Mirrors and Windows」で展示された写真を
そうやって2つに大きく分けたのだそうだ。
世界中で撮られた写真たちが、このたった2つしかないくくりに
ぴったりと当てはまるのかどうかは興味の範囲外であるけれど。
それでも自分の写真が鏡になっているということについては、なんとなく納得がいく気がする。
そして、その鏡が本当に私の内面を写してしまっているのだとしたら、
写真を見せるという行為はなんと面白く、なんと恐ろしいことなのだろう。