手のひらの上に火のついたマッチが乗せられる。靴べらが折れるまで打たれた体は痛みなど感じなくなる。そんな風にしてわたしは育ちました。そして10代の終わりから10年ほど、現実を現実として認識することがひどく困難な病にさいなまれることになりました。
この連載のお話を伺ったときに真っ先に思い出したのは大学の、とあるゼミの選抜試験課題のことでした。「取るに足らない自分について語る」そんなようなものだったかと思います。常からまさしく「取るに足らないもの」というメッセージを受けて育った身としては語る言葉などあるはずもなく、絞り出すように綴った提出物に指導の先生は何を見いだしたのでしょう。
あれから20年近くが経ち、こうして皆さんに向かって何をか物する機会をいただいた今でも、わたしのうちに語るべき言葉があるのかははなはだ疑問です。むしろ自分はどんどん溶けて正体を無くしていくばかりのようで、そしてそれはたいへんに心地よいことでもあります。堅持すべき自分などどこにもない、あるのはこの体だけ、という実感は、この身をひたすらに軽くします。一方でそこにはいっそう濃さを増す孤独が寄り添っているのですが。
わたしにとってステージに立つことは自分を明け渡すことです。手足を動かしているのはわたしの意識ではありません。その場に満ちるお客さんや奏者さん演者さんのエネルギーをすくい上げてはひたすらに返す。その循環装置のひとつとして組み込まれていくうちに、わたしはただの函(はこ)であるという思いを強くしていきました。
自分の中に何も持たなくてもいい。これはとても愉快な発見でした。
なんだ、愚かものとそしられて生きてきたわたしは、はなから何者でもなかったんじゃないか。
何も持ち合わせずとも輪っか一本携えて、五体投地の巡礼者よろしく身を投げ出すだけで、あんなにも遠かった外界とかくも易々と接続できる。なんという身軽さだろうか。
これからも踊るごとにわたしは自分を失くしていくのでしょう。
虎にその身を差し出した高丘親王のように、軽々と消えてなくなること。それが終の願いであります。