昨年の末頃、「
考える人」という季刊誌のインタビューを受けました。テーマは『日本の「はたらく」』。「今の仕事を天職だと思いますか?」と尋ねられ、天職なんてない、わたしはただただラッキーだっただけ、というような答えをしたかと記憶しています。
なすべきことをただなすだけ。先週のエントリーはわたしが直接見知らない方々のもとにも届いたようで、きっとその方たちもご自分がこれと思えるものに打ち込んでおられるだろうことが、ネットの海から流れ着く漂流物の中にうかがえました。読んでくださって、心を重ねてくださってありがとう。ここまで届いていますよ。なんだか不思議な気分ですね。
はてさて、ひとはどうやってなすべき(と思える)もの/ことに巡り合わせるのか。至極当然のように「なすべきこと」などと記したあと、皆が皆そうある訳もないだろうという思いがじんわり沸いてきました。
わたしの場合、自分の心身にあまりにもしっくり馴染むものとたまたま出会い、ただそれにしがみついてきただけですが、そこから何か抽出できるとするならば、こういうことかも知れません。
「これだ」と思えたものにためらわず手を出し、のめり込めるようなら、どんな邪魔が入ろうとも、しぶとく踏ん張ってみる。
たまたま訪れた機会を自分の掌中に収めることができたのは、これが結果的にうまいこと働いたからなのだと思います。
しばらく前、とあるワークショップのために香川に赴きました。県外からもいろいろなバックグラウンドの方が参加されていて、それは刺激的な毎日でした。
その日自分たちがなしたことの反省、明日への展望から果ては人生相談まで、夜っぴて話し合いました。そこでのこと。
今好きなこと(踊ること)を生業としていないことや、心地よく暮らしていた土地を離れて息苦しい日本に戻らざるを得なかったことなどを話してくれた、南の島からやってきた彼女は、日々の生き辛さはすべて自分が間違っているために生じているのだと感じているようでした。
わたしよりずっと若くて、わたしと同じような愚直さを持つ彼女に、こんな風に言ったでしょうか。
今居るところが息苦しいのは、必ずしもあなたのせいじゃない。
自分がどういう人間なのか、どうすれば活かされるのかを知るといい。
自分の適性が発揮できる場を選んで、今居るところを出ていけるなら、そうするといい。
その場でしか生きられないのに、たまたま運良く適合できているだけの人間の言うことに、耳を傾ける必要はない。
そしてわたしは、そこを出て行けない方の人間です、と。
つい自分の内側に瑕疵を疑ってしまう、とても覚えのある癖を持つ彼女に向けた言葉が、跳ね返ってきては我が身を照らします。
わたしは幸運にも生き延びてここにいるけれど、自分のたどってきた道が、必ずしも自ら選び取ってきたものでもないことを知っています。
わたしはただ、偶然の出会いにとっさに反応し、考えるよりも速くそれにのめり込み、あきらめなかっただけ。
あきらめられなかっただけ。
道程は、切り取る断面によっては負け戦にしか見えないこともあるでしょう。
退くも進むも、あなたにできることを。
さまざまな感情に彩られた、行き交いねじれ遠ざかる、あまたの轍を思います。