先日、フラフープ仲間が「The Hooping Life」というドキュメンタリーフィルムの上映会を催してくれました。撮影されたのはもう5、6年前で、登場するのはフープダンス黎明期の立役者たち。現在もなお第一線で活躍するフーパーもいれば、すでに一線を退いて違うビジネスに乗り出している方も登場していました。
連載初回にも少し触れましたが、わたしが生涯の友と決めているフープダンスは、実は大変歴史の浅いものです。90年代の終わりにアメリカで生まれ、ここ数年欧米ではプレーヤーが急増するに伴い、様々なスタイルや表現が生まれていますが、認知度も人口も技術も表現も、あらゆる面に於いて数年単位の遅れを取っているのが、ここ日本です。
フープ辺境の地・日本で、フープダンスが伝わった当初より関わりを持ち、最前線をひた走ってきました。教え、作り、ステージに立つ、フラフープで飯を食うフルタイムフーパーは、現在でも国内に3人といないでしょう。フィルムに描かれていた偉大な先人たちの奮闘ぶりに深い共感を覚えつつ、自分のしてきたことの至らなさやパフォーミングアーツを取り巻く日本の状況に歯がみしたり、超えていかねばならない諸々の高さに武者震いしたりしながら、各各のスタンスでフープを愛し楽しむ仲間たちとひとときを過ごせたのは幸せなことでした。
自分たちが今立つこの道の先が欧米での現在の姿に近づいて行くのか、それはさっぱり分かりません。
ただ先達の居ないシーンで最前線に立つ者として、自身こうあろうと決めていることがあります。
サーカスの曲芸とは違うフープダンスを、ショービジネスの世界でも、パフォーミングアーツの世界でも通用するものにするために、あらゆる可能性を模索していこう。
馬鹿げた試みに映ろうが、おもしろさを見いだせる限りは、選り好みせず軽薄に手を出そう。
イベントは昼間の親子向けから夜の大人向けまで、オファーされるものは基本的にすべて受ける。
声がかからなくても、親和性の高そうなものならゲリラででもやる。
映画でどさ回りの大道芸人を演じれば、モーションキャプチャーのCGモデルもやる。
まだ見たことのないものを現実のものとするために、取り入れられそうな技術は片端から試す。
このからだを使ってできることならすべてやる。
いま、新しい試みとして、フープを祭礼に持ち込もうとしています。
人間が惹かれてやまない図形のひとつである円が、人間の行う儀礼と親和しない訳がない。
日本に残る何百もの郷土芸能は祈りの舞や遊びから始まり、様々なものを取り込み今日の形に発展して来ました。フープだっていつか術具として取り込まれる可能性が充分あり得る、そう考えています。
未開の地を拓き、あらゆる方向に道を広げていく。なんてわくわくすることでしょう。
行く先には何の保証もありませんが、面白きものを嗅ぎ分け、生来のあきらめの悪さを最大限に発揮して、しぶとく進んで行きましょう。
歌舞音曲の髄にあるのは、遊ぶこと。わたしはそう信じています。