フープとともに踊ることで外界と接続できる、前回わたしは自身の身体感覚についてそう書きました。しかもその外界とつながる手段を、さいわいにも生業とすることができています。
一生続けたいと思えることに喜びをもって取り組むことができ、それを社会に受け入れてもらえていて、決して豊かではないながら口に糊することができている。大変に幸運でありがたいことです。
しかし、わたしの仕事というのはやはり特殊で、ひとの生活に直接関わるものではありません。非常時には優先順位がぐっと下がる(東日本大震災の時には歌舞音曲で生きているものができることについて、それはそれは考えさせられました)、社会的な重要度で測ると身の置き場に困ってしまうような類いものです。
そして芸事の範疇にあるものゆえ、時に非常にひとりよがりの、誰も幸せにならない面も多く持っています。そのために最も近しい人にとっては理解しがたく、悲しく寂しくさせることも多かったと思います。
フープに打ち込めば打ち込む程、パートナーには疎んじられました。今思えばそれは至極当然のことです。わたしが感じている苦しみや喜びはわたしだけのもので、そしてわたしが外とコネクトできる機会に彼は立ち会うことを望まず、その機会を逸する一方だったので。
外での評価がどれほど上がれども、家の中ではそっぽを向かれたまま。
加えてわたしには、幼い頃から受け続けた近親者の呪いが常に傍にありました。
おまえは取るに足らないものだよ。愚かなおまえのしていることなど認めないよ。
亡霊のような(実際は枯れ尾花だったのかも知れません)この呪いに息を止められる前に、走れ、逃げ切って行けるところまで行けと、ひたすらに踊り込んでいった一時期のわたしは、哀れな鬼のようでした。ですがゆるぎのない幸福感を手の内に握りしめていたこともまた事実です。
己のなしえることが必ずしも周りにとって歓迎されるものでないことは、ままあり得ます。それでも、なしえることをなすほか道がないならば、粛々とその道を歩むのみです。
なしえることなすべきことにただ向かうとき、夏の盛りの照りつける太陽の下の、足元に落ちる陰を思い起こします。
止まない蝉の鳴き声、プールサイドの子供達の嬌声。あたりは騒々しいはずなのに太陽が強さを増す程に耳はしんとして、陰はいよいよ深く濃く、いつしか自分のなかに落ち込んで、ぽかりと空いた穴が暗闇を増していく。
たったひとりで世界と対峙しているような、ひとりであることに果てしなく満たされているような、そんな感覚。
誰も立ち入れない、自分しか感じ得ない、誰とも共有できない。
寂しいことのようでいて、それはとてつもなく愉快なことではなかろうか。
この身は唯一のもので、それを制御し、それを通じて世界を知覚できるのは自分ひとりだけ。
自分しか知り得ない秘密があるという事実の前に、つい声を上げて笑いたくなります。
どんなに罵倒しようが、どんなに羨望のまなざしを投げかけようが、ここまでは辿り着けまい。はは、ざまあみろと。
それがいかにつらく苦しく、困難に満ちていようとも、己のなしえることなすべきことをなせるならば、そのひとはさいわいです。
脈打つ血管の圧力を、沸き立つ細胞を、脳内に飛び交う電気信号をよりどころに、わたしは笑いながら、己が立つ地を踏みしめます。