【第2話 靴とヤバい女の子】
◾︎お露(牡丹燈籠)
中国の昔話からインスピレーションを得て、三遊亭圓朝によって落語の演目となった《牡丹燈籠》には、足のある幽霊が登場する。
彼女は名前をお露ちゃんといい、下駄をからんころんと鳴らして男の家に通いつめ、愛しさあまってとりころす。
彼女の想い人新三郎は、毎晩お露ちゃんの下駄の音に怯えていたといいます。
私は幽霊が嫌いです。円山応挙が最初に描いたと言われる、すうっと薄明るくて足から下の描かれない、ぼんやりした描写の幽霊が嫌いです。
彼女ら彼らは一定の場所に現れ、そしてそこから移動しない。 私はそれがとても怖い。
「移動する」という行為は意思を伴う。A地点からB地点へ移動するのは、B地点に渇望があるからだ。
移動は恋であり、野心である。「欲しい」気持ちがなければ誰も移動なんてしないだろう。
中国の文化を背景に持つお露ちゃんは、幽霊だけど足がある。そして自分で歩きます。自らの意思で目的地へ移動する彼女は、とても恐ろしく、フィジカルで、パワーフルです。
ところで、女の子にとって「クリーンである」ということは必要だろうか。
お露ちゃんは家中にお札を貼って自分を閉め出す新三郎に業を煮やし、家の下男に百両の賄賂を渡して札を剥がさせる。これは公平に判断すると汚くモラルのないやり口です。
お露ちゃんは、新三郎に対して一切のホスピタリティを持っていない。幸福になってほしいとか、長生きしてほしいとか、そういったことは思わない。
こういった姿勢は、一般的には正しい愛ではないとされることです。だけど、愛などというプリミティブでアホみたいなものに、ぜんたいアカデミックな正しさがあるだろうか。
彼女は(私がしたいようにしたい)と思い立ち、そしてしたいようにした。その理由が、愛以外に、あるのだろうか。
一方的に猛スピードで向かってこられることは、新三郎にとって恐ろしく、迷惑だったことだろう。
下駄の音は彼女の愛の象徴だ。幽霊なのだから、裸足だって別に良さそうなところを、彼女はからころ鳴らしてやって来る。
好きな人に会うときはおめかしをしますね。恋のために着飾って、野心のために移動する!という意思を表すために、「靴を履く」以上のシュプレヒコールはないのではないかと思います。
私たちは、欲しいものを手に入れるために生きています。毎日は私の欲しいものとあの子の欲しいものとの戦いだ。
靴を履いて、命短し歩けよ乙女。かっこいい靴があればどこへだっていける。そんなもの失くしっちまったって、あなたたちはどこへでも行けるけれど。