【第4話 罪とヤバい女の子】
◾︎八百屋お七
井原西鶴の「好色五人女」にも登場する八百屋お七は、恋人に会いたい一心で町に火をつけ、火あぶりにされた女の子です。
彼女は火事がきっかけで出会った恋人にもう一度会いたいと焦がれ、もう一度火事になれば会うことができると考えた。その足跡は羽よりも軽く、熱風にくるくると巻き上げられる。
罪な女はなぜ魅力的なのだろう。
八百屋お七は手を替え品を替え、時代を超え、悲劇から喜劇まであらゆる趣向を凝らしてリメイクされている。そのエピソードは歌舞伎や人形浄瑠璃など、演目によって様々だ。
お七は演出によって、家に火をつけたり、火の見櫓に登って鐘を打ち鳴らしたりする。しかし物語がどれだけ細分化しても、どのお七も必ず、好きな人に会いたい一心で禁忌を犯す。
彼女は恋に対して積極的にアプローチする女性キャラクターとして、江戸の人々に新鮮な興奮を与えた。そして今でも与えている。恋のために自ら望んで悪に手を染めた女の子は物語の中では火刑に処されたが、日本中で人気になった。
ファム・ファタールとは一般的に、男性を破滅させる罪深く魅力的な女性とされている。しかしこの場合、恋の相手である吉三郎の意思はあまりに重要でない。(作中で男は、お七が火あぶりになっているあいだ病の床につき、ほぼ何の役にも立たないことが多い。)
彼女のチャームは最終目標が自分であることだ。お七は吉三郎を破滅させたいとも成功させたいとも思わない。迎えに来てほしいとも、どこかへ攫ってほしいとも思わない。そこには「(私が)(あなたに)会いたい」という気持ちしかない。
たとい何が失われたとしても、その意思を悪だということは誰にもできないのだ。
罪には必ず被害者がいる。
被害とは、誰かの欲求のせいで自分の欲求を台無しにされることだ。もしも恋に浮かれるその炎で家や家族を焼かれた人がいたなら、彼らはけして彼女を許さないだろう。
罪というのは、無自覚なことだ。自分の欲求のせいで失われるものに対して、流暢に頓着しないことだ。
例えば自分が被害者だった場合、Aを失ったかわりにBを与えられて、ほんとうにAを失う以前のすばらしい気持ちでいられるのだろうか。私は不可能だと思います。Aに戻れないなら許せない。許さなければずっと思い続けなければならない。
でも皆、彼女のことを愛してしまうのだ。あまりにもわがままな女の子からは、どうしたって目が離せないのだ。だから彼女の物語は無数に枝分かれし、今日まで語り継がれているのです。
まったく君ときたら、最悪でかわいいから、困るんだよね。