【第6話 顔とヤバい女の子】
◾︎鉢かづき姫
(ああ、もっと美人に生まれたかった!)
美醜は一般的に女性の永遠の悩みとされている。美醜とは何か。
鉢かづき姫は、頭に被せられた鉢が取れなくなり、顔が見えないと気味悪がられ行く先々でいじめられた女の子です。彼女は鉢をかぶったまま成長し、下働きをしていた家の男と恋に落ちた。
好きな人との結婚を男の両親に認めてもらうため、美しい兄嫁たちと対決することになった決戦前夜、にわかに頭の鉢が割れ、その中から彼女の美しい顔と、たくさんの金銀財宝が現れる。彼女は顔と金で武装し、あらゆる恋の障害に打ち勝った。
顔はあらゆる人の視線に晒される。そしてしばしばマウンティングされる。
例えば、スクール・カーストの大部分は容姿に由来する。早熟で容姿に興味がある女の子たちは、先手必勝で美しさ、派手さをベースにしたピラミッドを作り出す。
これは文化や学業、運動能力では代替不可能です。少女時代において、文化に傾倒する女の子はコロニーの外に意識が向いているし、学業は公平に一位が発表される。運動能力は日常生活では活かされるシーンが限られすぎている。
「容姿で勝負する」と決めた女の子は、文化・学業・運動能力の分野で勝負する心づもりの女の子たちも、力技で「容姿」のステージに引きずり出す。「あの子成績いいよね」「でもブスじゃん」となるわけです。
私は中学・高校時代に神戸の女子校に通っていました。
神戸には女子校が多い。そこには必ず強いギャルの集団がいた。
彼女たちが強かったのは、価値基準を自分たちで作り上げていたからです。そしてそれに従い政治をした。彼女たちはギャル集団の中で争い、順位をつけていたが、ギャルでない生徒には優しかった。それは彼女たちが常に「容姿」でしか勝負をしないと決めていたからです。容姿で勝負をしない生徒は、「容姿での勝負に参加しない」という形でトーナメントに参加させられ、不戦敗の特権として保護された。
それは今思えば世界に無数にあるトーナメント、無数にあるバトルステージの中のひとつにすぎないが、でもあの頃、私たちは思春期だった。
顔を「見る」ということは、攻撃の一種だ。
阿部公房の「箱男」では、見る側が見られる側を圧倒的に征服する。こちらの姿を見せずに一方的に見ることで、精神的優位に立つ。
これは、人が誰かの顔を見た結果必ず何らかの感情を抱くということ、そしてどんな感情を抱かれたのか分からないと見られた方は不安になるということだ。
顔を見られるということは、パッシブだとされる。だけど見られるために用意したものなら、鑑賞者が「見た」時点で見られた方の勝ちです。
数年前、私は大阪の国立国際美術館に草間彌生の展示を見に行った。行って、すぐ後悔した。会場には顔を水玉にペイントしたり、水玉模様の派手な飾りをつけた女の子たちがひしめき合っていたからだ。
(ああ、見られるための武装をしてきている)
意思のある顔は武器だ。「見られるための準備をした上で一方的に見られる立場でいる」という攻撃の嵐の前に、私はあまりにも無力だった。
ブスとは何か。ブスとは本来トリカブトの毒のことだ。附子の強い毒で麻痺した表情がブスの語源とされる。
日本書紀には黄泉醜女という名前の鬼女が登場するが、ここでいう「醜」には「力のある」という意味がある。
鉢かづき姫には力があった。それが彼女の場合、顔と金だった。
もしも顔と金でなければ何だろう。私はもう高校生ではない。facebookを開けばギャルも大人になっている。価値基準を自分で設定することができる。何を以って欲しいものを手に入れても、不戦敗することはない。
鉢が割れたら、開戦の合図だ。隠し持った獲物で思いきり殴れ。その手に持っているものなら、何だっていいから。