女性に性衝動の芽生えとはいつ訪れるのでしょうか。
男性では「射精」を第二次性徴で迎えます。
射精行為の目覚めはイコールセックス、ではありません。
女性の第二次性徴で訪れる変化は「生理」です。
これも同じく、イコールセックスではありません。
あくまで生理現象の段階です。
わたくしは心理学者でもなければ研究者でもありませんので、主に実体験に基づいたお話しかできませんが
今回は「性の自立」について考えてみたいと思います。
(そして、主に男女間の恋愛、セックスについて記述します。)
私の性の目覚めは実に早熟でした。
今でも鮮明に記憶に残っているワンシーンがあります。
小学生にあがる前の年頃、夏の午後の日差しが射し込む自宅の一室に男性向けのエロ本があったのです。
「昼寝をしている女子大生に遭遇した性に目覚めた時期の男の子、言いようのない性的衝動に駆られて女子大生の胸を揉みしだく。」
という見開きページ。
いとこ関係だったか、関係性は余り覚えていませんが、そのワンシーンが強烈に記憶にこびりついています。
なんとなく見てはいけないような気がして、ドキドキした事を覚えています。
今思い返すと、私にとってのセックスとの出会いでした。
そして、もう一つ。
これは今思い返して感じる性との出会いです。
クリムトといえば、というほど有名な絵画です。
この接吻のレプリカが、自宅に飾ってありました。
幼い私は、妙にこの絵が好きで気にっていました。
この接吻。
崩れ落ちる様な危うい姿勢の女性に男性が抱え込む様にして口づけをし、クリムトらしい色彩の輝きが荘厳さを与えています。
男性の衣服には四角形、女性の衣服には円形、
この図形が示すものは男性と女性の象徴でもあるわけで、至る所にエロスが含まれています。
また足元にからむ茨の様なものがこの2人の不穏な未来を暗示しているかのようです。
恍惚とした表情、愛の情景だというのに、そこはかとない「悲劇の香り」を感じます。
愛の情景なのに、何故悲劇を香らせるのでしょうか。
世紀末芸術らしいエロスとタナトスの世界です。
(このテーマについてはまた今度…)
幼少期に出会った寝込みを襲う年下の男の子と襲われる女性という背徳的な漫画のシチュエーション。
そして絵画にちりばめられたエロスと悲劇の香り。
私は「禁断」悲劇がまとわりつく物語とともに、エロスと出会ったのです。
ですから、私にとってエロスとは禁断で、人に知られてはいけない欲望でした。
そして欲望を感じた自分自身への恐怖でもありました。こんな欲望を誰かにさらけ出す事なんて出来ない!と。
しかし「食事をする姿」もまた、欲望を表した姿ですね。
私は時折
食事とセックスを結びつけることがあります。
例えばビジネスの相手でもなく、友人とも言えない知人程度の男性から「2人きりの食事」に誘われたとします。
そこで私は「この男性とベッドインしたいか否か」自分に問いかけます。
「したい」なら、その男性と2人の食事に行くでしょう。
「したくない」なら、断るでしょう。
男性と2人きりの食事、は、私にとって疑似セックスなのです。疑似愛撫、のほうが近いかもしれません。
ここで、それは極端だ!と思った方が大勢いると思います。
生きていれば様々な出会いや経験するので、その体験を元に新たな人間関係を形成していくものですから、私も極論だな、と思います。
しかし「出会った相手」に「性的に」惹かれるか惹かれないかのジャッジを本能的に一瞬でしているだけの事なんです。
誘われた段階で興味を抱けば、私は女としての覚悟を持って、出かけるのです。
食事をして相手の知り、その結果で何もなければ、次へ切り替えれば良いのです。要は本能的に惹かれる相手かどうか、セックスセンサーを鍛えているイメージでしょうか。
「私はこの人についていきたい」そう感じていざ2人で食事にでかけ、さらに欲望が疼けば、その相手とベッドインしてみれば良いと思います。
身体の相性も良く、食事の仕方も好ましければ、良い関係を気付ける可能性があります。
勿論、真の友人関係も存在すると思います、全てにおいてこの図式が当てはまるなんて思っていませんが
少しでも欲望の対象と感じる相手との食事は、2人で出かける目的が決定的に異なるのです。
友好を深める時間ではありません。
欲望を確かめ誘うための時間です。
食べる本能とセックスの本能は「欲望」という視点で、私にとって実に近いものだと感じています。
もし相手が自分を「欲望、恋愛、対象」として見ている事になんとなく気付いていながら
自分は相手に興味がないのに食事だけはついていく。
そんな行為は、相手に対して失礼だと思うのです。期待させて蹴落とす感じ。
そうやって、私は出会いに関してかなり本能の部分で感じる勘を大切にして生きてきました。
結果的に、この勘が疼いて出会った男性は現在の恋人だけです。
友人に紹介してもらい、即会ってみたいと思い、2人きりで食事をして、すぐに関係はスタートしました。
さて、
お付き合いする。転じて結婚する。
ここにセックスはついてきます。
その先に「妊娠」の可能性を秘めています。
結婚する、しない、子供を産む産まない、は個人の自由なのでまた別のお話ですが
子供を出産するということは、女性の人生において大きな転換となる出来事です。
自分以外の存在の人生を共有することになります。
そして、人生は良いときもあれば悪いときもあります。自分の出来事も相手の出来事も誰よりも近い場所で知り、共有する事になります。
悲しい時に、不本意なセックスをしていれば更に不幸な気持ちになるでしょう。
自分の悲しみや辛い出来事を相手に癒してもらったら、更に相手を大切だと感じると思います。
そうやって、試練を一緒に乗り越える事で、関係を深めていきます。
そして楽しい時を共有することで、相手との日々を更に愛おしく思います。
心の変化を伝え、共有しコミュニケーションを深めている2人だからこそ
セックスをした時、素直に身を任せたり主導権を握ってみたり、欲望をさらけ出せるのです。
「この人に抱かれたい。」
という意志を持てる相手を見つけ出すということは、
私にとって、人生を共有して生きていける相手。を見つける、という事に近いのです。
身も心も捧げる、というと大げさですが、誰かと人生を共有するということは全て自分の思い通りにはいきません。
自分に起きる変化を受け入れていくことになります。
一緒に生きていきたい人と生きる為に、自分も最善をつくし、選択する。
この人との人生なら私は変化することを厭わない、そんな相手です。
相手に起きた試練を支え、共に乗り越えた先に、更に深い関係が築けているのではないでしょうか。
また、相手も同じ様に自分に起きた試練を見守り背中を押してくれる人だと、良いですね。
幼い頃に出会った性体験、悲劇の香りを孕んだ愛の形。愛と表裏一体の悲劇。
愛する相手に降り掛かるかもしれない悲劇さえも受け止めて生きていくという覚悟の根源になりました。
人生、とか、覚悟、とか、書いてしまうと大層ご立派は話なような気がしてしまいますが…、単純な事で、「この人と一緒に居ると私は笑顔になっちゃう、幸せなんです」と思える相手と出会い、さらに想い合えたらなら、それはとても素敵な事だな、と思います。
私にとってセックスセンサー、はその為だったのかな。今は思います。
これが私なりの「性の自立」です。
自分の意志で、人生を共有出来る相手を見つけ出す。ということ。
愛した人がツラい時、一緒に落ち込むのではなく
微笑み抱き締めてあげられるような包容力を持った女性になりたいと思います。
人の心の痛みは、その人にしかわからないのですから。
冒頭に掲載したランジェリーのモチーフの「心中天網島」
悲劇的な愛のなかに女の覚悟と粋があります。
もしご興味惹かれたならば、見て下さい。
せいな