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2F/当番ノート

「アタシ」のすゝめ(よん)

当番ノート 第27期

忘れられない言葉があるの。
別に覚えていなくても人生に問題はなさそうだし、全然輝いていなくて、ましてや本当にそんなこと言われたのだっけか、頭の中の引き出しを引っ掻き回すと、言葉と一緒に、車内のヤニ臭い匂いも、バックミラーに下げられた、古いダッコちゃんストラップも、その揺れ方も、シートの肌触りも、隣で寝息を立てていた妹の顔、その濃い眉、全部、余計な感傷と混ぜこぜになって大事にしまわれていて、埃にもまみれず、真空パックしたみたいに綺麗にパッケージされているから、なんの気なしに思い出しても嫌になるほど鮮明なのだ。思い出、いえいえそんな綺麗なもんじゃない。記憶は、タバコのヤニのせいで一緒に壁にへばりついて、拭いても拭いても、こっちの手が黄色く汚れるばっかり。泣きたくなる匂い。いや。いや。その匂いを消すためにアタシは、お母さんの枕をいま嗅ぎたい。ちょっと優しい匂いがするし、お母さんの身体から、個人の部分がなくなって、「お母さん」の汚れだけが残ってるの。寂しい時はいつもそうして泣いていたんだもの。お母さん。匂いばっかり大事にして、怒っていない?ねえ。お母さんの言葉ほど寂しい瞬間を、まだアタシ、知りません。

アタシ家出をしました。たったの、4時間だけ。いえ、あれは誰がなんと言おうと家出なの。もちろん今はもう、帰って来ているということなんですけど。
本当にくだらない理由だったけれど、アタシはもう反抗心に火がついて、絶対に家に帰らないと思っていた。お母さんが時々アタシの部屋を覗いて、その痕跡に泣けばいいと思っていた。アタシみたいに。
今時珍しくもない話かも知れないけれど、お母さんは、アタシが小学校3年生の頃に、「ちょっと買い物言ってくるわ。」と妹に言付けたまま、家に帰らなくなった。丁度夏休みが終わる前日のこと。夜中になっても帰ってこない母を、妹と父と心配しながら、待っていた。明日は学校もあるし、もう寝なあかんと父に促されて、不承不承布団に潜り込んだら、いつも母が寝ていた布団、その枕から「お母さん」の匂いがして、ずっとその匂いを嗅ぎながら、部屋が暗いと不安になるということもあって、豆電球を付けて、泣きながら眠った。
朝になってももちろん母の姿は無く、父はもう会社へ出勤しているので、家はアタシと妹だけで、朝起きても安心は無く、ずっと不安な気持ち。ああ、アタシが朝を喜んで迎えられないのも、この日のせいかもしれません。真面目なアタシは、それでも必ず学校へは行かないといけない、と思い込んで、妹を起こして登校はしたけれど、先生の話も、友達の夏休みの思い出も、まったく耳に入らず、覚えていることと言ったら、クラスメイトの後藤君が夏休みの間に骨折をして、松葉杖を付いてやって来て、一躍クラスの人気者になったことくらい。
痛かったやろうなあ、という労いは、そっくりそのまま自分に返ってきて、午前中に学校を終えると走って家に帰り、息を切らせば、いの一番に母のケータイに電話をした。長いコールを待って、電話に出た母の声は、既に涙のせいか揺れていて、ごめんな、ごめんなというだけ。なにもアタシに教えてくれなかった。すぐに電話は切れてしまって、それからは留守番電話の知らない女の人の声。幼心に、お母さんはもう帰ってこないという事実を悟ったアタシは、お母さん、お母さんと、うわ言を発して、よろめきながら寝室に向かい、あの枕にしがみついて、「お母さん」の痕跡を胸いっぱいに吸い込むことがやっとだった。匂いは、「お母さん」を面影にしていって、余計に寂しくなるのはなんとなく分かっていたんだけど。父も仕事を早めに切り上げたのか午後すぐには帰って来て、「やられたな。」と印象的な一言を呟き、アタシと妹を目一杯抱きしめてくれたのだ。その頃のアタシは太っていて、背も平均よりいくつか大きかったから、アタシの方が、小さいお父さんの身体を包むような格好だったと思う。
それから、まあ、色々とあって、端折りますけど、父にも「いい人」が出来て、アタシも妹も、学校にあまり行かなくなっていたから、環境を変えるという大義名分の元に、母と父が連絡を取り、今度はお母さんの家で心機一転、がんばれや、お前らもお母さんのこと好きやろ、という簡単な惜別の言葉でもって、母に引き取られた、という訳。こうしてみると中々に可哀想である。自分の半生をつらつら捲し立てるのは趣味が悪いけど、母の話となると、どうしても、出て来てしまう話なの。
母が迎えに来てくれたのはアタシが中学を終えた頃で、一年半ほど前。平日の、振り切らない雨が鬱陶しい日で、父はというと、もうアタシ達が家を出るというのに、なんといびきを立てて眠っていた。母が家を出てから、家族一丸で頑張ったという自負はたぶん三人にあったけれども、いざ別れ目、となってみると、心持ちはことの外さっぱりしていて、アタシも妹も、父が寝ていることを、ちょっと残念、くらいにしか思えなかった。後ろ髪ひかれることもなく、じゃあ行ってくるわ、と一言残すだけで、長年の住処に父だけを残して去ることが出来たのだった。
それよりもアタシが驚いたのは、母の変わりよう。マンションのエントランス前に止まった黒いワゴンRの中に母がいて、6年ぶりの再会に、出来るだけ自然に、半分嬉しい、そして半分憎い気持ちは荷物と一緒に押しこんで、気怠く、気取ってドアを開けたなら、そこに居たのは、母というか、母のフリをした、太ったおばさんだった。それを母だと認めるのに数秒かかって、「久しぶりやあ!元気してたんか?」と、母みたいなおばさんの声を聞いた時には、アタシは他人に向ける笑顔と同じ顔を披露していて、それが自分でも堪らなく嫌だった。
「お母さんさあ、よおあんたらのこと夢に見ててんで。知らんかもしれんけど、お父さんにずっと引き取りたい引き取りたいって言うてたんや。でも、お前には任せられへん言われてなあ、もうあんたらには会われへんか思てたわあ。せやからお母さん今日、上機嫌やろ?ルンルンやで。」
知らん知らん。やめて。上機嫌かどうかなんて分からんし。むしろアタシ達の機嫌取ろうとしてるやろ。そんな話は全然聞きたくない。アタシ達を捨てて、それだけのことをして幸せになったんじゃなかったん。でも全然幸せそうじゃないやん。アタシ達と暮らしてた時の方が幸せそうやったやん。疲れ切ってるやん。なんなん。お母さん、昔もっと綺麗やったし、自慢やったのに。なんで今、そんなに、汚いん。わざわざ化粧なんかしてこんでいいねん。めっちゃしんどい。見てられへん。キモい。
車はいつの間にか進んでいて、雨の中、国道一号線をまっすぐ進むところ。アタシはお母さんみたいなおばさんを見ることが出来ずに、窓にぶつかる雨の粒と粒が、重なって、大きい水滴になって、堪えきれずに垂れていくのを眺めるだけ。妹は相づちをうって、昨日あまり寝てないから着くまで眠ると、ミニーマウスのブランケットをかぶった。あ、やられた。妹は要領が良い。
アタシが何も喋らないから、自然と車内は母の言葉と、タバコの煙で満ちていき、今日ご飯なに食べたいか、とか、お父さんはどんなご飯作ってくれた、とか、運動会でアンカーのアタシがごぼう抜きをしたことは今でも忘れられへん、とか、まあ、ありきたりな話題を、ヤニと一緒に吐き出して、アタシは窓に目をやりながら、妹と同じ戦法で、眠いフリをして、曖昧に、できるだけ軽卒な態度で相づちをうっていた。
ふっ、と急に母が喋らなくなって、なにやら不安に駆られ、片目を開けてバックミラーを見やると、鏡の中の母と目があった。アタシの、寝顔を見ていたのだ。その目は、優しいというよりは険しい目をしていて、なに、怖い、と思ったアタシはまた目を閉じると、母がさっきより低い声で、呟くように言った。

「あんた、いまお母さんのこと見て汚いと思ったやろ。」

心臓がギュッとした。アタシの密かな侮辱は、ばれていたのだ。フッ、と最初の一息で涙を堪えた。悲しくて寂しくて、すぐにでも謝りたかった。でも言葉にすると、認めたことになってしまうから、涙が出るから、言えなかった。いままで、たった15年生きてきて、こんな悲しい言葉を聞いたことがなかった。せめて憎んでやろうと思っていたアタシの思惑は、バックミラーに揺れるダッコちゃんのストラップが催眠術みたいに揺れて、揺れて、アタシを咎めているみたいに見えた。母も、気にしていたのだ。だから、そんな、化粧もしてさ。お母さん、と泣いて、飛びつくことができたらどんなに良かったんだろうか。
堪えきれずに結局、窓の雨粒と同じに、勝手に涙は伝ってしまった。ばれない程度に。それで母が許せるならいくらでも出て欲しい、もっと出てこいと思った。でも涙って不思議。そう思うと止まるのだ。
「お母さんさあ、ハンバーグ得意やったやん。味濃いめに作ってくれるやつ。あれ食べたい。」
「せや、あんたら好きやったなあ。よっしゃ、今日ハンバーグにしよか。多分材料あるからすぐ作れるわ。」
お母さん、以外と料理うまいからなあと母が笑って、妹は、本当に眠かったのか家に着くまで起きなかった。
でも聞いて。その日の晩ご飯ね、チンジャオロースだったの。材料が無くて。

母は既に再婚していて、家にはおじさんと、いつ産んだのか弟が居たけれど、それぞれ部屋もあって、なんとか幸せに暮らし、親孝行もできて、めでたしめでたし。とはならないのが実際の生活らしく、妹は早々に彼氏を作って家を出て行き、アタシはアタシで、学校も相変わらずサボりがちで、家に居ても手伝いらしい手伝いはしなかった。なんちゃって家出の発端は、そんなのじゃなくて、もっと馬鹿らしいのだけど。

今日より少し前、学校を終えて家に帰ってきて、さっさと自分の部屋へ戻ったアタシは、いつもみたいにクーラーのスイッチをピッと鳴らすと、お母さんがどたどた、重い足音を立てて部屋に入って来た。ドアの前で、三頭身が仁王立ち。
「ちょっとあんた、まだ6月やねんで。クーラーは我慢しいや。」思いのほか険しい顔。
「だって扇風機ないから暑いねんもん。」
「ずっと言おうと思ってたことがあるねん。そんなに家のもん自由にばかばか使うんやったらな、ちょっとは家にお金入れなさい。1万円でもいいから。」
「え、ちょっと待ってよ。どこの高校生が家にお金入れるねんな。びっくりするわ。学費やって自分で払ってんのに、そんな余裕無いわ。」
「あほ。お母さんは高校生の時には家にお金入れてたわ。ほんで定時制の学費なんか、年間で10万行かへんやろ。半分くらいお母さん出してるし。バイトでいくらくらい稼いでんのんな。」
「言いたくない。」
「知ってるで。15万以上あるねんてな。」
「知ってるんやったら聞かんといて!」
こうして口論が始まって、お互い堂々巡りになって来た頃、アタシが、勝手に引き取っておいてお金の話なんかせんといて!と言おうと意気込んだ瞬間に、
プウウッスウゥ〜
と気の抜けた音が、母の股間のあたりから聞こえた。
「え?いまオナラした?うそやろ。」
「そうやしたよ。出てしまうねんもんしょうがないやん。生理現象です。ごまかさんといて。」
「よう大事な話してる時にオナラなんか出来るな。」
ブッ、ブゥ〜
「あ、お母さんなんかオナラ出てしまう。おなか痛いわ。ちょっと、まって、トイレ。」
そのままトイレに駆け込んだかと思うと、うんうん唸って、それでもドア越しにお金の話を延々としている母に、情けないやら、悔しいやらで無性に腹が立ち、ありったけの服と、それと、なぜだかあの、呪いの反省文をリュックに詰めて、勢いのまま家を出てしまった。なんでそんなに、汚いん。お母さん。
普段のアタシにこんな思い切った行動力はないのだけど、妹に出来て、アタシに出来ないことはないのだと思い、大丈夫、大丈夫。とりあえずは友達の家を点々として、バイトの数を増やしてお金を貯めよう。ジプシーみたいでかっこいいじゃないの。
23時を過ぎて、道行く人もない地方都市の住宅街には、車と、電車の音が、微かに聞こえるだけ。わっと風が起こったら、街路樹を揺らして、水銀灯の下に、影絵のお化けが揺れるだけ。なんてことない、いつもの夜だった。なにも変わらない、一人になっても、決意はそれほど必要ない。なんて。
そうして考えていると段々楽しくなってきて、妄想は捗り、今後、借りた部屋のインテリアのことに思いを巡らせてみたけど、さてはて、まずはアタシにそれほど友達が居たかしら、と最初の壁にぶち当たった。
困った時の助け舟、こんな時は、早紀ちゃんである。ああ友達が居ないだけ。

「ボンちゃん!」
早紀ちゃんがアタシと会う時には、必ず始めに大声で嫌なあだ名を呼ぶのが、通例になっている気がする。家のすぐそばに、八尾枚方線という府道があるのだけど、まっすぐ自転車で30分くらい行くと、アタシが通う学校があって、家と学校の中間あたり、いまは営業しているのかも分からない、しなびたホームセンターのくんだりまで、早紀ちゃんはわざわざ来てくれたのだった。
家出をしたと一言告げたら早紀ちゃんは、ボンちゃんも今日から一人前の大人やからバーに行こう行ったことないやろ、と、アタシの背中を押して、タクシーで学校の最寄りのバーにしけこんだ。(しけこんだ、の使い方あっていますか?)
バーは想像していたよりも広くって、テーブル席もたくさんあって、アタシが働く店とさほど変わらず、ゆっくり飲みたいからとテーブル席に座ったせいで、バーの雰囲気はほとんどなく、大人の第一歩を半端な歩幅で終えてしまい、残念。一回やすみ。
「ボンちゃん何飲む?あ、ちゃうちゃうええのあるわ。これにしい。」
早紀ちゃんは手早く、飲み物と、落花生を頼んだら、すぐタバコに火をつけて、アタシにこう言った。
「ほんでボンちゃん、いつ、おうち帰んの?」
ギクリとした。相変わらず家には帰らないと決めていたけど、早紀ちゃんの予言は、ノストラダムスより説得力があるし、実際アタシは、これからどうしてゆくか、まったく決めていないんだもの。
「いやいや、帰らへんってば。とりあえず早紀ちゃんの家置いてもらおうと思ってたのに。」
お伺いを立てるつもりで、冗談めかして言ってはみたものの、早紀ちゃんは聞いてないのか、無視したのか、家にこんな照明欲しいわー。と、どぎついシャンデリアまがいの照明を見て、タバコを口に持っていって、煙で輪を作ろうとして失敗していた。
「お待たせしました。」バーテンダーさんが持って来てくれたのはビールと、それからカルアミルク。早紀ちゃんは迷わずビールを取ったから、アタシがカルアミルク。びっくりした。早紀ちゃんに自分の好みを話したことなんてあったっけ。アタシの、好物である。
なんだか自分の店で飲むより美味しいのは、バーテンダーが作ったからかしら。すっかりご満悦の様子でちびちび大事に飲んでいたら、早紀ちゃん、
「美味しい?」
とグラスを口にやったまま、上目遣いでアタシを見ていた。
「うん。なんか普段自分の店で飲むよりも美味しい。なんでやろ。好きやねんカルアミルク。」
素直に応えると、何が面白いのか、相変わらずグラスに口を当てたまま、グフフ、グフ、グフ、と堪え切れぬ可笑しさに、早紀ちゃんの身体は揺れていた。
「あたしの勝ちやわ、ボンちゃん。」
「え、なになに。もしかしてなんかヘンなもん入ってんのこのお酒。なに。なんで笑うの。」
突然の勝利宣言に目が点になったアタシは、なになになになに。へらへら笑って戸惑うばかり。
「あー、面白い。あっつい。あたし実は賭けとってんよ。もしボンちゃんがな、あたしが勝手に頼んだカルアミルクにケチでも付けて、嫌いやって言うてくれたら、まあ、まあ、大人として見込みあることにしといて、ちょっとはうちに置いたってもええわと思とったけど、せやけどもしカルアミルク好きやとか言いよったら、そんなガキンチョすぐ家に返したろうと思ててんけど、やっぱりあかんわボンちゃん。そんなん好きや言うて飲んでる間は。甘過ぎるわ。まだまだやな。きょうはおうちに帰りい。お母さん大事にしい。」
余韻が冷めない早紀ちゃんはクツクツ笑いながらビールを飲んで、敗北感に打ちのめされたアタシは、恥ずかしくて堪らず、気づくと、落花生の殻でなく、タバコのフィルターを指でちぎっていた。なによ、キザな賭け事なんかして。
もう何を話しても早紀ちゃんには勝てぬ気がして、それでも勝とうとして、それからのアタシは顔を真っ赤に染めながら、ひたすら早紀ちゃんの知らぬ話題ばかり振ってしまったと思う。顔が赤いのはもちろん、お酒のせい。「でもそれ、カルアミルクやで。」グフ、グフ、下品な笑い声が、常に頭の中で響くのだった。
その日の早紀ちゃんは最後まで意地悪で、いつもお会計はほとんど出してくれるのに、
「ボンちゃんもう大人なんやろ。今日は割り勘やで。タクシー代も自分で出しや。」
と言ってきっちり半分、アタシから4000円取っていった。バーってちょっと、高すぎると思いません?

そして、早紀ちゃんの大予言は見事的中、カルアミルクのせいで、家出はたったの四時間で幕引きとなった。まさかこれほど自分の意志が弱いとは信じられずに、最後の反抗、コンビニでの立ち読み作戦も30分くらいで飽きに飽きて、いつもよりゆっくり歩いて家に着き、ため息が出るのに任せて、玄関の重い重いドアをあけました。
「あ、帰って来た。おかえりー。」
「ごめん、ちょっと遊びに行ってた。」
母は起きていた。というか、聞いて驚くなかれ、まだトイレの中に居た。
「いつまでトイレの中におるねん。神様かいな。」
「え?聞こえへん。お母さん便秘やから、出せる時に出しとかんと大変やねんもん。歳には勝たれへん。もう終わるわ。」
ブッブリョッ、プリリ
閉所恐怖症を自称する母は、いつもトイレのドアを少し開けているから、嫌でも、その、なんというか、最中のライブ感というか、音を、堪能させられる羽目になる。汚い。聞きたくない。
「なあ、お母さんのこと、汚いと思わんといてや。」
あ。また。言われてしまった。けどなにか、今日の言葉は悲しくない。なぜかしら。
「だってお母さんさあ、オナラばっかりぶうぶう出すねんもん。汚いわ、そりゃあ。」
「やめてよもう、出したくて出してるんちゃうねんから。」
母はそう言って最後に一発、ブウッ!とかますと、また出たわ、と久しぶりに聞く大きな声で笑って、トイレットペーパーでお尻を拭く音を、遠慮なくガサガサ、鳴らしていた。
そうだった。アタシは思い出に母を美化しすぎていて、その日のまま、母を見る目だけが止まっていたけど、もう母は随分前から、汚いのでした。そしてそれをもっと早く、笑ってあげれば良かったのでした。まさか、オナラに、気付かされるとは、思いません。

今日は、すごく長い話になってしまって、ごめんなさい。
まあ、最近こんな事があって、アタシは、今日ものうのうと、この家で過ごしている訳ですけれど、その日からお金の話も出なくなって、ホッとしています。
まあ、水に流れたってところでしょうか。トイレだけに。無理して笑ってくれなくても、結構です。

北野 セイジ

北野 セイジ

なにもないから、東京に来ました
東京は24区
僕は26歳
アパートメントでは、文章を書きます
9回の連載で一つのものを書く予定(未定)です
第1回から読んでいただけたなら幸い

Reviewed by
岡田 陽恵

ことばひとつで済ませられないのが「家族」だ。
いびつで、心を深くえぐるのも「家族」だ。
でもそれがいつか、そのうち、自然に流れるのも「家族」だ。



忘れられない言葉の記憶を北野さんは鮮やかに描いた。

現代、いろんな家族のかたちがある。
みているこちらが傷つくニュースもある。
そんなニュースを見るたびに、それでもいつも思うのは、いま「なにか」があった「ある」家族にも、あたたかな食卓を囲み、子供は子供だったし、親も微笑んでいた時間は少なくともあったはずだ、ということだ。

川に草が生えるように、それはとても自然に、再生することもあると思う。
いびつなままでも。

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