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2F/当番ノート

やさしいひとへ

当番ノート 第27期

映画「恋人たち」を観ましたか。

公開当初香川での上映予定がなく、しかしどうしても「劇場で観なければ」という気持ちに急きたてられていたわたしは、鞆の津ミュージアムで「障害(仮)」展を観たあとで、福山での最終上映回ならばその日のうちに高松に戻ることができると気付き(翌日朝から仕事だったので)、劇場に滑り込みました。

「どうしても」と思ったのは、この映画が「ぐるりのこと」以来7年ぶりの橋口亮輔監督の長編作品だったからといえばそうでもなく、どんな内容かもほとんど知らず、ただ、信頼していた人からひどい裏切りを受け、暗いトンネルの中にいるような時期を体験したという橋口亮輔という人がどんな映画を撮ったのか、興味があった。その興味が全てでした。

画面が揺れ、揺れながら切り替わり、俳優の顔が唐突に大きく映し出される。化粧気のない顔とたるんだ裸体、上擦った声、好きな人に必死に縋る電話は切られ、生活の臭いの充満した部屋で一人泣く姿を抱きしめる人はいない。

「ああ、わたしは、こんな人間になりたくない」

「こう見せたい」「こう伝えたい」という技術とか手法とか、そういうものが全くつかめない映画だった。
同情もできない。感情移入もできない。惨めな彼らを見ているのが恥ずかしい。
「映画」というフィルターが取り払われた状態で対峙した物語は、架空のものではなく生身の人間そのものであり、わたしも、鑑賞者ではなく人間として、自分の感情に嘘はつけなかった。

物語に出てくる彼らを、そして、この映画を撮った橋口監督を見下す態度が、自分の中に間違いなく存在している。
引きずり出されたその意識を、誰かと共有して、自分だけではないのだと安心したかった。

多分それで、雑誌『映画芸術』を買った。「2015年日本映画ベストテン/ワーストテン」特集には、「恋人たち」に対する論がいくつも挙がっていた。この映画が、賛辞を受けるのは分かっていた。だって、映画ではなく、直接的に人間を否定することになるもの。この映画を否定することで、「こんな人間になりたくない」と思ってしまった自分を肯定し、彼らを、橋口監督を、否定することになってしまうから。目を背けたくなるくらいに生生しい、「映画」としての評価とは別の位置にいる映画だ。

今、とてつもなく偉そうなことを言っていますか、大丈夫でしょうか。

しかしその中で、「人間ってそんなに簡単なものじゃないと思う」という一文が目に入った。「恋人を殺され弁護士にも裏切られクスリに溺れることも自殺することさえできない男も、昔サヨクでロケットで腕を吹き飛ばしたと自嘲する先輩と、食べて笑いあうことくらいで癒されてしまうのか。人間ってそんなに簡単じゃないと思う」

この文章を読んで、わたしは悲しくもならないし、怒りもしない。
ただ、その意見に驚いた。
「そうか、そう思う人もいるのか」と。

「人間ってそんなに簡単じゃない」のか。
わたしは、経験したことのない裏切りや絶望、喪失を分かったような気になっていただけなのだろうか。
そうだとしたら、「人間ってそんなに簡単じゃない」と、彼らがもっともっと幸福になることを願い、怒りを覚えたその文章の方がずっと優しい。

わたしは、自分のことしか考えられない。

連載をさせていただいた2カ月間、記事を読んだことを伝えてくれる人が、想像していたよりもたくさんいて、声をかけられるたびに嬉しかった。「なかっちゃんがウェブに記事を書いてるよ」と紹介してくれた方もいたし、さらには、わたしのことを知らない人も、ここに書いた文章を読んでくれて、思ったことをわざわざ伝えてくださって。

人からもらう言葉を、こんなに素直に受け取ることができるのは初めての経験だったかもしれません。
ありがとうございました。すごい。

中でも「素直な文章」だと言ってくれた方がたくさんいました。
確かにわたしは素直であること、できうる限り自分の感情を包み隠さないことを軸にして書いていたので、それは何よりありがたい言葉でしたが、実際、心に決めなくても、わたしには自分自身のこと以外に書けるものが思い浮かばないのです。
自分のことばかり考えているだけなのであって、それを「素直だね」と言ってもらってわたしは、本当は、喜んでもいいのかわからない。

出会ってきた人たちのことを書いてきたけれど、その人たちは、本当はわたしのことを心から嫌悪しているかもしれない。どれだけ考えを尽くして書いても、結局はどの言葉も自分の想像の範囲の中にしかない。
「いい文章だ」と言ってくれた人も、本当は全然そんなこと思っていないかもしれないし、そもそも、読んですらいないかもしれない。

読んでいなくても「読んだよ」と言える。嫌いでも「好きだよ」と言える。そうやって人の言葉をいちいち疑ってかかるのは、自分自身が、適当な言葉で嘘をついて、その場をやり過ごすことができる人間だからなのだと思います。

「こうありたい」「こう見せたい」と必死になっていたら、どうやったら相手が喜ぶのか、とか、自分を好いてくれるのか、とか、そういう態度や言葉を使うことが上手くなってきました。
それを「器用」な生き方だと言うのかもしれません。
「恋人たち」は「不器用」な人たちの映画でした。
自分の情けなさ、惨めさを、隠すことができない人たち。
あるいは、ひた隠しにしてきたそれらの部分を暴きだす映画。

本当は、幸せになりたいのだ。
自分だけでも。

器用な自分でいることは悪いものではありませんでした。
自分の行動が相手を喜ばせるのを見るのは、達成感があった。
気付いた時にはそういう人間付き合いをするようになっていて、それを変えようとも思っていなかったし、時々虚しくなるのも仕方のないことだと思っていた。

でも、自分の器用さが、自然なものではないのだと気付いてしまう経験をしてしまった。

この連載をわたしは、本当は、ひとりの人に向けて書いていました。

知り合ったばかりのとき、その人は、自分の出会ってきた人たちのことや好きなもの、影響を受けた考え方について、会う度に話して聞かせてくれました。「説教くさくてごめん」と言いながら。
彼は、わたしにも何か話してほしいと促してくれたけれど、わたしは、何をどうやって話したらいいのかわかりませんでした。
わたしの言葉はどれも借り物のようで、恥ずかしくて。
彼の話す姿を見ているのが楽しかった。
いつまでも、その話を聞いていたかった。

彼が話をしているときの、自分の身体の中から言葉を拾い集めているような沈黙の時間が好きでした。
自分自身の体験や感情と照らし合わせながら、目の前の人や物事を吸収していく姿勢を見て、わたしも、そんな風にまっすぐに物事に向き合ってみたいと思っていました。
彼は、わたしの憧れだった。

でも、それからしばらく連絡を取らずにいた時期のあとで、彼は、そういう素直さを抑え込んでしまっていました。
何かがあったことは知っているけれど、何があったかは知らない。
それでも再び連絡を取り始めた彼は、ちょっと違う人みたいだけれどやっぱり彼でしかなくて、むしろ、憧れていた頃よりも一緒にいる居心地のよさを知ってしまった。

わたしは、強く憧れた素直な彼でいてほしいと思いながら、今の彼でもいてほしいと思っている。
でも彼は、本当は、わたしが出会った頃の自分に戻りたいんじゃないかな、と、思う。
だからわたしは一緒にいられない。

彼を見ていて、自分の望みに正直に生きる人の生き生きとした生命力を知り、同時に、人と関わりながらもその生命力をそのまま維持するのは難しいということも知りました。
だったら、彼は、どうやって生きて行けばいいの。
教えてもらうばかりで、わたしは彼に、何も教えることができない。

素直なだけではごはんは食べられない。
誰かと関わる限り、自分の素直さだけを追求することはできない。
それでも誰かと関わろうとするならば、自分に少し嘘をつき、相手に少し嘘をつき、そんな自分を責めながらもやっぱり誰かを求めて、その間で揺れ続けてゆくのだろうと思う。

わたしは色んなことができない。
できないくせに、誰かと一緒にいたい。

わたしだったら、わたしみたいな人間が職場にいたら苛々するし無視すると思う。友人になりたくはないし、ましてや、恋人になんか絶対になりたくない。
それでも、こうして書いた文章を読んでくれる人がいて、会いに来てくれる人がいて、ふいに何気ないメールをくれる人がいる。
更新日の前日に書いた原稿に、わたしにはもったいないくらいの文章を寄せてくれた耳子さんも、一度しか会ったことがないのに連載に誘ってくれた悠平さんもいる。
すごい。これは本当にすごいことだ。

人間ってそんなに簡単じゃないのかもしれないけれど、わたしは、そんなに簡単なものなのかもしれない。

あなたも、あの人も、他の誰かにとっては、わがままでどうしようもないような人間なのかもしれない。
でも、わたしにとっては、もうちょっと理解できないくらいにやさしい人だ。

彼が、自分の望む場所で、望む人と生きていけますように。
(それがわたしと一緒にいることならば最高なのにね)

わたしにとってのやさしい人が、自分のやさしさに気付きますように。

中田 幸乃

中田 幸乃

1991年、愛媛県生まれ。書店員をしたり、小さな本屋の店長をしたりしていました。

Reviewed by
猫田 耳子

最終回に辿り着く、ただそれだけのためにページを繰る手が焦りで震える本がある。
確か内田樹の書籍の中に、読書という体験は「今読みつつある私」と「もう読み終えてしまった私」との共同作業だという記述があった。その先に何が待っているかは分からない、だけどきっと良いものであることを不思議と知っている。「今読みつつある私」がひと目でも早く「もう読み終えてしまった私」に出会うため気持ちは急き、身体はそれに応えるように震えだす。

そんな最終回に辿り着いたような気分だよ。

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