コーヒーカップの湯気の向こうにいる妻に向かって
「おめでとう」と言ってみた。
トーストにブルーベリージャムとクリームチーズを塗りながら
「何が?」と返しちらりとこちらを見る、彼女の少し冷たい目線が僕は好きだ。
「今日、何かの日だっけ?」
「なんとなく。きみを見てたら『おめでとう』って言いたくなった。大安吉日土曜日の朝。天気もいいし。なんとなく。」
「ふーん。」
そう一言言い放った後、妻はプチトマトを頬張り、小さな顔をリスのように膨らませテレビの方に関心を向ける。
「…何でもない時に”おめでとう”って言うと、”幸福の予約”をしたような気持ちにならない?だから僕はおめでとうって言葉が好きなんだ。」
妻はテレビに向けていた目線を一瞬こちらに向け、コーヒーカップに口を当てる。
「嬉しい予感が、おめでとうって言葉を口にすると広がるような感じ。完成された前兆。だから、おめでとう。今日はいい日になるって、おまじないみたいなもの。ハッピーエンド系映画の録画予約、みたいな。ふふ。」
「なにそれ、ただのおめでたいひとじゃん。」
「まあそうなんだけど。」
口角を右側だけ上げる笑顔を僕に見せた後、テレビに関心を戻しブルーベリーチーズのトーストをむしゃむしゃ食べる。
僕がむずがゆい事を言った時に見せる、むずがゆそうな彼女の笑顔がたまらなく好きだ。
「何でもない時に、急に涙が出る時って。」
お皿の上の豚肉をサニーレタスでくるくる巻く事に集中してる夫に向かって語りかける。
「何でもない時に、急に涙がじわってなるの。
スーパーのレジに並んでる時とか。坂道をゆっくり歩いてる時とか。本当に、ふとした瞬間に。」
「うんうん。」
相槌を打ちながら、サニーレタスにくるまれた豚肉をポン酢につけて、夫はもぐもぐそれを食べる。
「こないだカレー屋さんに入ってね、お店の中で流れてる音楽と隣の席の人の食器の音がチャカチャンって、うまく重なって。それは見事に、綺麗にカチッとはまったのね。そしたら、それが何かの合図みたいに。気づいたらどんどん涙が出てきて。結構お客さんもいたから、カバンの中にあった小説取り出してさ、それ読んで感動してるふりをした。」
「うん。」
「突発性思春期だって、もう言わないのね。」
「言わないさ。きみ怒るんだもの。」
「そのね、そういう意味不明な涙って、固形スープみたいだなって思ったの。」
「目からスープが出るの?」
「なんていうかね、今まで生きてきた中で味わった切ない記憶が、コンソメみたく、ギュっギュって普段は固まってて。
ふとした瞬間、目の前の景色が熱湯になってしまって、溶けてくような、そんな感じだなって。そう思ったの。」
「きっかけなんて、なんでもいいの。
合図が鳴ったら、ここはお鍋の中だったって事に気づく。じわ〜って。コンソメスープのできあがり。一体誰が飲むのかしら。神か悪魔か、はたまた己自身か…。なんてね。」
「人生とは。切ない記憶のコンソメスープ。詩人だねえ。」
夫は私の話をニコニコしながら聞き、味噌汁をすする。
「…例え話。でも例え話が詩になるなら、私は例えて例えて例え続けて、弱い自分を許したいだけなんだと思う。
詩って多分、そういうものでしょう。許したり許されたりするために生まれたんじゃないのかな。知らないけど。」
「だからやっぱり、それはあれだよ。」
「…慢性的、思春期かも。
夏風邪みたいに、ずっとこじらせてるだけ。あなたが言うように。多分。」
食卓の真ん中で踊るのは、月の色をしたねこと、太陽の色をしたねこ。
入れ替わり立ち替わり、テーブルの上をまわり続ける。
電気を消し、布団にもぐりこんだ後、夫の真似をしてつぶやいてみた。
「…おめでとう。」
”完成された前兆” ”幸福の予約”、いいことがあるおまじないなんて、そんなもの。
太陽のもとで健やかに育った、フレッシュな野菜みたいな夫の言う事は、
時々こちらの気が滅入るほどに、キラキラと眩しい。
わかりやすくも祝福の言葉が合図になり、
両の目からスープが1滴2滴と
パタパタこぼれ、
枕にじんわりと、シミをつくる。
どんどん溢れてくるそれを無視しながら、目をつむり、鼻水をすすり、
いつものように、冷蔵庫の中でひっそりと出番を待つ野菜たちのことを考える。
薄暗く冷たい世界で、じっと耐え忍ぶ。彼らを時々無性に愛しく思う。
夫の言う、”幸福の予約”というものが何かはわからないが、
寝る前に毎晩、こうやって明日の朝食卓に並べる料理の事を考えているのは
それに近い行為なのかもしれない。
頭の中で食卓はすでに完成されている。
サラダもパンも。ジュースもミルクもコーヒーも。綺麗に配置されている。
そういえば、こないだ大量に買ったジャガイモに少し芽が出ていた。
明日はポテトサラダサンドにしようか。
朝になれば、枕の染みも乾くだろう。
眩しい太陽が、私の気持ちなどおかまいなしに、
飽きもせず、名乗りもせずに、またやってくるのだから。