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器に初めてはっきりと憧れたのはたぶん、シルバニアファミリーの食器セットに触れたときだった。
あの小さくて、完成された可愛いものは大人だけに扱うことが許された品物の香りがして、そっと胸を熱くしたことを今でも思い出せる。可愛いけど本当のものは簡単に割れてしまいかねない。それでもいいから本物が欲しいなあ。
その時覚えた強烈なときめきは、今度はお母さんが自分の好みで集めたお客様用のカップ・アンド・ソーサーに向けられることになる。滅多に取り出されることがないから、私の記憶のなかではずっと食器棚に美しく並んでる姿ばかり。
「特別であること」とは、そのお客様用のカップ・アンド・ソーサーのようなことなのだと思った。その時点で私の知っている美しさは、「うやうやしく」「儚い」ものだけだったのだ。
それらはマグカップようには毎日使われない。
滅多なことをして欠けてしまったらいけないから。それはお客様用のものだから。
私は密やかに、でもはっきりとそれを独り占めしたいと思っていた。できるだけなんでもない日に楽しみたい。できるなら、自分だけの幸福のために。私にとって器は小さい頃に集めていた色とりどりのビービー弾みたいに、はっきりとした理由もなくただただ綺麗だから持ち帰りたいというだけで夢中になれるものだった。
馬鹿みたいな真面目さをもって美しいものとふたり、誰にも介入されない場所で向かいあっていたかった。
カップから目を離せなかったあの一瞬無音になるような関心を、情熱と呼ぶのは大袈裟だと言われてしまうのかな。
そんな私の欲望は、海外の蚤の市を旅するごとに爆発することになる。
郊外の公園や街の広場で見つけたどれもが使い古されて、ちょっとした難があって、見たことないくらい美しい絵付けがされていた。そして、びっくりするほど安かった。とくにベルリンのマウアーパーク蚤の市は宝物島みたい。価値なんかあるものか、という顔でガラクタのように食器を扱っていたおじさんたちから、家でどう使っていたかまで話してくれるおばさんたちから、へとへとになるまでの集中力で選び買い取った長旅の食器たちが今は私の窮屈な食器棚に無造作に重ねられている。
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古い器は、過去の記憶の結晶のよう。
だから、それを好んで集めている私は記憶のコレクターでもある。
絵柄の掠れて消えてしまったところから溢れる歴史の気配や、現実に手のひらに感じる重み、茶渋で目立ってしまっている無数に入った貫入に、私は半ば勝手にじぶんの記憶を重ねる。
ある食器の青を見れば昔から好きだった「ピーターラビット」のお話の淡々とした美しさを思い出す。
ピーターラビットの世界に広がっていた、人間のように生きる動物たちがみせてくれた心地よい孤独と優しい自由を今でも追いかけている、なんて言ったらみんなはびっくりするのだろうか。
大嫌いな学校からやっとの思いで帰宅した日、用意されていたお母さん手作りのケーキの胸の詰まるような安心を思い出させるお皿もある。
安心すると心細さのほうが倍になるのは、なんでだろう。しとしと降りだす春の雨が瞬く間に一面じわっと湿らせるような心の動きまで思い出す。ほっとするのに、「戦わなければいけない」であろう次の日を思うと耳を優しくふさがれるようで心許なかった。
おばあちゃんちの無造作な食器棚でほこりをかぶった漆塗りの朱を連想させる益子の器も、昔住んでいた町に雪がしんしんと降る景色、としか言いようのない白のフランスの器も。器は個性をあらかじめ持つスクリーンみたい。
うつわ自身がそれを語ることはない。
私が自分の記憶を着せて眺めることで、少しずつ淋しさや生きづらさを癒している。だから器は本当に個人的なもの。
記憶だって扱いを間違えば器と同じで、割れてしまう。過去である分だけ、薄く成形された白磁のように緊張感のある姿をしていたりするから危ない。でもそうだ、器は「金継ぎ」で蘇生できる。それならきっと記憶や心だって同じでしょう?
ワレモノに大切な記憶を重ねることはリスキーかもしれない。だけどその危うさでしか映し出せない自分らしさもある。
それをちょっと離れて見守るような強さを備えられれば、もっと冒険できるかもしれないし。そんな飛び方、してみたい。
「美しいものとふたりきり向きあい過ごす」時間は甘やか。だけど、器をのぞき込むだけではまだまだ一面的なのだ。
側面に景色を見出したり、器の底に驚きがあることもある。それなら今度は、「綺麗」という言葉に納まりきれない色かたちをじぶんの記憶に頼らない視線で、射貫いてみたい。
コワレモノであるということは、弱いということではない。
注意して扱いましょう、の意。
「注意してできるだけ意識することなく、ほとんど壊れることを恐れずに扱いましょう」。
例えば割れるのはカップ、それ自体であって、カップたらしめている美しさが損なわれるわけではないということ。
美しさを失わなければ、割れることも傷つくことも欠けることも、わたしは恐くないな。
継いで良くなるなら継げばいいし、欠けたままが良ければそれは景色になっていくはずだから。
今夜も食器棚から見覚えのある景色の気配がする。私はKOSMOSシリーズと名付けられた夜空みたいに深い青色の、ロシア民芸によくある形をしているカップでたっぷりの紅茶を飲もうと手を伸ばす。
今も私が好きな器は美しい、とシンプルに思っているけれどそこに儚いという意味合いはない。前までならノスタルジーこそ器が好きな理由だったけど、今は道を切り開くための信頼のおけるパートナーだ。
割れうるという前提のもとに生まれているけど一回性の美しさをまずは全うする、とても心強いものとして傍らに置いているんだよ。
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はじめまして、松渕さいこです。
小さな頃から器をはじめとしたインテリア雑貨に魅入られて、インテリアショップで働いています。
毎日お店に立つことが本当に好きです。ものが持つ感性に触れることも。
ものに出会う人々の心の動きを目の当たりにできる距離感に立っていると、ひとつのものとの真摯な出会いが
人生を変えうるという奇跡を身近に感じることがあります。ときには切実さをも伴って。
アパートメントでの二か月間の滞在のあいだ、私がみなさんに差し出せるものは私の個人的で細やかな告白しかない、と思い当たりました。今すぐに完成品として見せられるものを持たない人間だからです。
それでも、断片的な私の周りのものへの気付きのすべては、原風景であるインテリアへの思いに繋がっています。音楽を聴いていても、美味しいものを食べていても、急に淋しくなってひとり夜の散歩にでるときも、たまたまみんなの輪にいる時も、意識はそこに帰っていく。どんなに素敵な旅をしても小さなじぶんの部屋に置いてきた幸せと不幸せのどちらもが気になって仕方なくなってしまう私が、「この命と切り離せない」と思っているものの話をしていこうと思います。
いつかその話の欠片をかき集めて、ひとつの凛とした器になれた姿を思い浮かべながら。