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知り合わないと忘れられない。

それをエンジェルと呼んだ、彼女たち。

名前が同じ人をあまり知らない。漢字が同じでも読み方が違っていることがほとんど。なのに、この連休中に滞在した南インド・ゴアの宿泊先のホテルには、もうひとりの「さいこ」が泊まっていたと言う。

滞在して2日経った頃、コンシェルジュの女性が私を呼び止め、「あなたと同じ名前の人にあなたの予約確認書を渡してしまったのだけど、彼女は同じ名前の別人だった」と笑いながら教えてくれた。ゴアのなかでも南ゴアに位置するそのホテルには、東アジア人はほとんどいない。旧ポルトガル領のゴアを訪れるのは西欧人かインド人ばかり。だから、日本人は目立った。私はひとりの日本人女性をレストランで、あるいはプールサイドで見つけていた。彼女が私と同じ名前の人に違いなかった。

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日本でもほとんど出会うことがない、同じ名前の彼女にこんな遠い場所で出会うなんて。声を掛けたら、この驚きを正しく共有できるだろうと思った。「よく電話で聞き間違えられませんか」とか「英語で自己紹介すると笑われませんか」と質問してみたり、「素敵な名前ですね」って伝えられたかもしれない。いつ話しかけよう、とドキドキしていた。数回はチャンスがあったと思う。けれど、そのどれもを最終的に逃してしまった。

彼女がパートナーと一緒にいたから邪魔するのを躊躇したのと、同名の人が目の前にいるということ、おそらくはこのインドでただふたりなのかもしれないという偶然を思うと、その不思議な巡り合わせを噛み締めているほうが自分にとって面白かったのだと思う。

「話しかけなかった人」のことをこの先に何回か思い出すだろうと考えることは、なんだか口惜しい。話しかけることで起こり得た出来事をいつまでも列挙できるから。でも、話しかけなかった人のことを覚えていられることは同時に、人生って感じがする。知り合った人のことは忘れてしまうかもしれないのに可笑しいなと思って、少しだけ温かい気持ちになる。

もうひとりだけ、同じ名前の人がいることを知っている。お母さんの音楽友だちだ。お母さんはその人に「ある日突然」大好きなバイオリニストのライブで出会って、ひょんなことで友だちになったそうだ。娘である私と同じ名前のその人とお母さんはそれ以降、一緒にそのバイオリニストのライブに行ったりお茶をするようになった。私はまだ、その人に会ったことがない。会ったことがないのにその人のことを考えることが、ごくたまにだけど、ある。

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名前だけのことで、共通点はそれ以外ないのだろう。なのに名前だけで思い浮かべることのできる人の横顔や、まだ知らない人の雰囲気を、特別なもののように感じる。何かのSF映画で観た、違う惑星で地球人に出会う感覚は、こういう感じかもしれない。いつか出会うことがあるかもしれないと想像すると懐かしくて、永遠に出会わないかもしれないけどあなたがいたことを知っている、と思えば陽気な気持ちになる。

南インドの彼女はあれから日本に帰国したのだろうか。同じ「印」を持っている知らない人たちのことを思い浮かべて一瞬安らいだ気持ちの正体を、私はまだよく知らない。

松渕さいこ

松渕さいこ

interiors 店主 / 編集・企画 東京在住
お年玉で水色のテーブルを買うような幼少期を過ごし、そのまま大人になりました。2019年よりヴィンテージを扱うショップの店主。アパートメントでは旅や出会った人たちとの記憶を起点に思考し、記します。「インテリア(内面)」が永遠のテーマ。

Reviewed by
ぬかづき

名前というものには魔力がある。モノにも人にも名前はついていて、それは概念や個体を表す便利な記号であるとともに、その表すものと分かちがたく結びついて、知らずのうちに、その表すものの運命や性質を導いていく。だから、もし、あなたやわたしが違う名前を持っていたら、その人生は今とは違ったものになっていただろう。

では、もし、違う人が同じ名前を持っていたら? もちろんふたつの人生がぴったり重なり合うことはないけれど、名前というものを媒介にして、どこか必ず通じ合うところがある。なぜなら、名前には魔力があるし、さいこさんの書くように、名前は「印」であるから。魔力や印が引き寄せてくるできごとというものがある。

わたしの名字も、知名度が高いわりに非常に稀だ。これまでの人生で、親戚を除くと、漢字までまったく同じ名字を持つ人に出会ったこともない。ところが、以前住んでいた東京の東のはての町で、すこし離れた銭湯に出かけた夜中、近所をぶらついていたときに、わたしの名字とまったく同じ名前を冠する整骨院に行き当たった。間借りしていた家からこんなに近くにその整骨院があったことに驚いた。1階部分が整骨院になったその家には灯りがついていて、きっと家の中には、わたしと同じ名字をもった家族たちが夕飯でも食べていたのかもしれない。一瞬、玄関のインターホンを鳴らしてこの感動を伝えてみようかという馬鹿げた考えが頭にひらめいたけれど、結局そんなことはせずに通り過ぎた。

この広い世の中には、わたしと同じ「印」をもった人が確かに暮らしていて、それぞれの人生を送っている。会ったこともないそのような仲間たちのことを考えては、その同じ印がその人に何を引き寄せたのかを静かに想像する。

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