ストーリーテラーって何ですか?
3年ほど前から自己紹介をするときに「ストーリーテラーです。」と名乗ると「なんですか?それ?」となるので、「おはなしを語る人です。」と言うと「ああ、朗読ですね。」と返ってくる。(そうだよね。そう思うよね。)と思いながら見た目の違いはほとんどないようにも思うのだが「違いがあるとすれば、観客との間に媒体(本とか紙とか)を持たないでそのまま素語りをするんです。」と話すと、「ああ、、、、、、へえ。」とほとんどの場合、納得と言うかなんとなくイメージを作っていただける。(朗読と素語りの違いは最後で)
― 素語りをする人をストーリーテラーと言う。
ヨーロッパでは中世から小さなアイリッシュハープを片手に村から村へと演奏とストーリーテリングをしながら生計を立てるアーティストがたくさんいた。これがストーリーテリングのはじまりとも言われている。語るものは他作もあれば自作もあり、詩も多く語られた。もちろん小説や歴史を語るものもいた。特にこれと言った決まりもないのだ。好きなもの選び、好きなように自由に語る。自由というのは自分がどれほどのものなのかを知ることのできると言うか、知ってしまうのだからそれはそれで手厳しい。どこかで聞き手のニーズに応えるものも出てくるものも出てくるし、あくまでも自己を貫きアーティスト然とするもの出る。そこには何の垣根もない。聞き手はもちろん自分の好みに合わせていくから、人気商売で「あいつは食えないやつだ」が出るのも当然至極のことだ。
スコットランドのエジンバラで初めてストーリーテリングのワークショップを受けた時、講座を受けているほとんどの人が口を揃えて「日本には落語家がいるじゃない」と言う。(そうだよね、でもちょっと違うんだけどなあ)と思いながらもグーグルから得た知識を頼りに話し始める。乱暴な言い方だがストーリーテラーにはなんの修行もない。ある日「私ストーリーテラーです。」と言えたならそれで立派な肩書を持つのだ。これがスコットランドのストーリーテラーである。落語家になるには門下に入り修行がいる。これが大きな違いの一つと言っていい。
ワークショップを受けていく中で、徐々に「私もストーリーテラーになりたい」と思うようになっていった。そんなことを休憩時間に話すと講師であるクレア・ヒューイットが「なりたいじゃだめよ。「なりたい」と「です」の間には覚悟が違う。覚悟はそれに向かう姿勢が変わってくるのだから。ストーリーテラーです。と胸を張りなさい。」と。今から思えばこれは私に踏み出す勇気をくれたのだと感謝している。
興味深かったのは、最終日に見たというか聞いた、ストーリーテラーたちのある作品であった。10人のベテランのストーリーテラーたちが同じ作品(約5分ほど)語る。作品の話の筋は同じなのだが、言葉尻はその人なりに改訂して良いルールだ。3人ほど語り終えた時に驚いたのは、どの作品も違うのだ。それぞれが同じ作品をどんなふうに解釈しどの言葉に重きを置いたのか語り方も声も間にストーリーテラー自身が現れてくる。最後の人が語り終えた時、観客はほぼ総立ちで拍手を送った。誰もが違う10作品を聞いたような不思議な気持であったに違いないと思う。
帰国のときに、私がワークショップを受ける前に思っていたストーリーテリングを学びたいと思った理屈は消えていた。
読み聞かせや素語りは眼で活字を追うのと違い、直接、感情をつかさどるところに届き想像力を育てることが出来る一番有効なことだとか、子どもにも疲れた大人への癒しの効果とか・・・なんだか知らないけど頭でっかちな事柄はすっかり吹っ飛び、ただただ好きなことだから続けたいと思うだけの自分がいた。何より楽しくて嬉しいのは自分なのかもしれないな。
最後に、素語りは朗読よりも物語の中にストーリーテラー自身が強く現れてくるように思う。他者の作品にストーリーテラー自身の解釈がのり語られるのだから、物語と語り手の距離はとても近い。良きも悪しきも・・・。
次回はストーリーリングってなんですか?
ストーリーテリングは語り手と聞き手が作り出す十人十色の世界。