夏が来るといつも思い出す人がいる。中学時代の美術の古屋先生のことだ。先生の夏休みは「鍋いっぱいにトウキビ(トウモロコシ)を茹でて、誰にもじゃまされないところで、一日中、トウキビを食べながら、推理小説を読むことだ。」と言っていた。かなりの変人で、美術室で演歌を歌いながら油絵を描いて、中学生に自分の入れたコーヒーをふるまった。インスタントコーヒーがメジャーの時代にドリップコーヒーを入れていたのだから、今から思うとかなりのセンスの良さだったと思う。私は美術部所属ではなかったが絵を描くのは大好きで、自分の部活(スキー部)をさぼって美術部にいることも多かった。
写真:庭からの贈り物を玄関へ。
口癖は「絵で身をたてようと思うな。ただうまい絵では食えないぞ。でもな、そこに見えていないものが描けるようであれば、話は別だ。いいか、夜にしか見えないと思っている星は、昼もそこにあるんだ。変わらず光っているんだからな。」と、生徒にデッサンさせる前に言っていた。それを聞いて私はどう思っていたのだろうと思い出そうとするけれど、きちんと思い出すことはできない。でも、昼にも星がそこにあることを当たり前と思わないで、なんだかとても良いことを聞いた気分になったんだろうと思う。
この、はっとさせられた言葉を、金子みすゞさんの詩に見つけた時は、何と言えず嬉しかった、、いやそれ以上に驚いた。
星とたんぽぽ 金子みすゞ
青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だァまって、
春がくるまでかくれてる
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ。
見えぬものでもあるんだよ。
かれこれ30年以上も前のことだが、まだこんなに金子みすゞさんが世に広がる前のこと、私は、「大正時代の童謡を学ぶ会」にいた。なんと、講師があのみすゞさんの詩を世に出した、矢崎節夫さんだったのだ。児童書も書かれている矢崎先生がお話してくださった、みすゞさんの詩を世の中に出すまでのエピソードは、まるで矢崎先生はそれを使命に生まれてきたのだろうと思わせるほどの話だった。
みすゞさんの視線はそこはかとなく深い。
そして、気づきをくれる。「大漁」という詩では、「はまは祭りのようだけど 海のなかでは 何万の いわしのとむらい するだろう。」とある。海の中での静けさを深い優しさで書いている。
みすゞさんの詩のことはまたどこかでお話できたらということにして、本題に戻ろうと思う。
私が中学生のときに聞いた、古屋先生の言葉は心のどこかに残っている。
心に残った言葉は、必要とするときにふと心の引き出しから取り出され、また息づくことがある。みすゞさんの「星とたんぽぽ」であの時に私と出会って、また確かなものとなり心に深く沈んでいる。
私の目指すストーリーテリングは、言葉の奥にあるものを感じるようにして語ること。それが出来たら、素晴らしい。なりたい自分になる道はまだまだ長いけれど、たとえば夜の星の話をするときにも、昼にもそこに輝いていることを感じながら語っていこうと思う。
言葉や物語はきっとその人を、前から勇気づけたり励ましたりするものではなくて、ただただ横に寄り添っているそういうものなのかもしれない。
うちのアジサイたち 畑の野菜たち