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2F/当番ノート

スパイラル・ライフ

当番ノート 第33期

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バスに揺られながら見る景色から今日はなんだか色という色が全て抜け落ちているようなそんな気がした。
僕のヘッドホンからはいつものようなギターの轟音ではなく、静かで心地よいジャズのメロディーが流れている。
(情景にジャズを絡ませるだなんて、なんか村上春樹憧れっぽくてむず痒いですね)
とはいえ僕はジャズといってもそんなに色んなものに精通しているわけではないし
聴きたいと思えるものは大体何曲かに決まってしまっているので、
今日も僕の中の定番中の定番であるビル・エヴァンズの「ワルツ・フォー・デビイ」を聴いていた。
ジャズといえばロバートグラスパーみたいな新しいアーティストの曲もいいのだけれど、
そういう新しくてクリアなものをうけつけない日というのがあって、それがどうやら今日みたいなのだ。
昔の録音特有の少しノイズの混じった感じのその聴きなれた音楽が、色のない景色にとてもよく合っていた。
もしかしたら聴いていた音楽がいつもの景色から色を奪っていたのかもしれない。
ビル・エヴァンズといえばやっぱりあのモノクロームの写真や映像を思い浮かべるから。
あのポマードを撫でつけた堅苦しいヘアスタイルと黒ぶちの眼鏡はいつ見ても憧れる。

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先日幼馴染が死んだ。

とは言っても大人になってからそいつとは全く交友がなかったし
その訃報を別の幼馴染から聞いたというだけで、詳しいことは今もよくわかっていない。
どういった経緯だったのか、とか、そういったことが全く語られていない以上、
きっといろいろなことがあったのだろうと、僕に何ができるわけでもないのだから、
と僕はその疑問のスパイラルを途中で噛み殺した。
掘り下げたところで何かが変わるわけでもないし、結局僕の賤しい興味が少し満たされるだけのことなのだ。
それに、昔から知った人間のこととはいえ、
所詮は今、僕が構築した僕が住んでいる「世界」にはあまり直結していないようにも思える。
乱暴な言い方をしてしまえば、今の僕にとっては映画の世界と何も変わりはしないのだ。
昨日見た映画の中で、ヘロインを断ち切れず自分は今まで恋をしたことがないと歌っていたチェット・ベイカーへ
僕が向けていた眼差しといったい何が違うのか、多少の親近感はあるにせよ大差ないように思えて、
なんとなくやるせなくなった。

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僕は今東京に住んでいる。
住み始めてからもう15年目に入ってしまった。
そろそろ地元の大分で過ごしていた時間に追いついてしまいそうな
そんな長い時間、そいつを僕は東京で働きながら遊びながら過ごしている。
地元大分から見ればほぼ外国というくらいに遠い距離。
はっきり言えばお隣の韓国に行く方がよっぽど近いってくらいだ。
そんなところで一人きり生きているのだという心細さと、疎外感というやつを最近よく感じることがある。

最初もきっとなんなら今よりも強くそれを感じていたのだろうけれど、
田舎独特の粘着性を帯びた他者への興味、そいつに元々馴染めていなかった
自分にしてみれば、その真逆ともいえる無関心という冷ややかな感触は
なんとも心地よく思えたと思う。

それは今も変わらないといえば変わらないのだが、
最近はどうも具合が悪いと思うことも多くなってきた。
根をはれないもどかしさというのもあるだろうし、鬱陶しく思っていたものが
(その鬱陶しさはあるとわかりつつも)愛しいものであるのだなということを
やっと認識できるようになってきたということなのかもしれない。

「幸福が現実となるのは、それは誰かとわかちあったときだ」
IN TO THE WILDという映画に出てくるワンフレーズで、
普通に考えればそんなの当たり前のことだろうと一蹴されてしまうような
ありきたりの格言みたいな言葉なのだけれど、彼がその言葉を掴みとった経緯を考えると
とてもそんな風には思えない言葉で、僕はたまにこの言葉とそのシーンを思い出す。
(観たことがない方には是非とも観てほしいと思う)
言葉なんてものは、いろんな書物の中に僕が生まれてくるずっと前から記させれているわけで、
知ろうと思えばいつでもどこからでも知ることができるものだ。
だけど、結局それを知ることと理解することが全く別物で、それを理解するまでに僕はやたらと長い年月をかけてしまった。
鬱陶しく思っていたものへのある種の愛しさというような感情も、
その長い年月の紆余曲折を経て僕はやっと理解し手に入れようとしているのだろう。

僕はいつだって少し遅い。
気づくのも遅い。
手に入れるのはもっと遅い。
何故か自分が最初思っているよりも思いっきり不器用な方法をとって
まるで好んでいるかのように回り道を選択することを繰り返してしまう。
でもそんな回り道で拾ってきたもののことを考えると、
それはそれでいいもの、というか僕にとってはそれこそがかけがえのないもので、
そう考えればそんな風に過ごしてきた日々もまあ意味があったかなと思う、思うことができる。
今回の人生ではもしかしたら最後ちょっと足りないなーって嘆く羽目になるかもしれないけれど、
まあそれも僕の人生だししようがない。

僕は僕の人生を謳歌するのみである。

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岩男 明文

岩男 明文

あいかわらず写真を撮っています。

Reviewed by
松渕さいこ

自分が誰と繋がって生きているんだろう、と元々住んでいた地方都市と比べれば信じられないほどの人が暮らす東京にいると考えてしまう。

東京に暮らす時間が繊細な思春期を暮らした地元よりも長くなればなるほど、その疑問は色濃くなっていく。いつもどこかで誰も私を知らない場所に住みたいと強く願って、今すぐそうできないもどかしさの詰まった地元の記憶。

そうしているうちに上京し、あっさり願いは叶った。だけど、最初の数年だけの魔法だった。

「誰も知るひとのいなかった」東京で、今ではスクランブル交差点で知人を見つける。入った雑貨屋
さんでばったり出会う。私がひっそりと出掛けた先でもきっと、誰かが私を見つけているかもしれない。私に知らされていないだけで。

その状況は地元の駅にいれば誰かと会ってしまうことにうんざりしていた過去と何ら変わりない。地元での人間関係は、時間の濃密さが作り上げたものだった。東京の場合は、好奇心が作り上げた。誰も知る人のいない東京で、友達ができるのは嬉しかった。みんな知らない人だったから、興味がつきない。どうしてここにいるの、なにしているの、なにをしたいと思っているの。

過去のことを話さなくても、都市に暮らす者同士、共同体になれる気がした。未来の話ができる友達は刺激的。そのムードで繋がる人同士の輪に夢中で飛び込んでいたら、いつしかまた、思うようになった。

誰も私を知らない場所で生きたい。

結局は、同じことの繰り返しになるんだろう。私が煩わしいと感じるのは、結果的に出来上がる愛しい(が、ときに幸福な閉塞感を感じさせる)人間関係じゃない。そこにもっと愛をもって飛び込めないじぶんの臆病さに尽きる。知らないところに飛び込むこと自体にちょっとした勇気が必要だとしても、私に必要な勇気はそれじゃない。愛しいと思う人の輪にちゃんと根を張ろうとすること。

人々と能動的に繋がっていられたら、誰の価値観に左右されることのない、自分の現実を築けるだろうか。映画のなかの出来事みたいに悲劇も喜劇もすり抜けていくのではなくて。ね、イワオさん。でも、繋がることの程度ははっきりと区別できるものなんだろうか。そうじゃない気もする。付き合いが長くても言葉を交わした時間は短いかもしれない、すれ違っただけの人を忘れられないかもしれない、触ったことがある人でも遠いかもしれない、触らなくても解かるかもしれない。

私の尺度だけじゃ愛しいものを取りこぼしてしまう。ぽろぽろ、ぼろぼろ、ぽたぽたと。あと少しだけ勇気を出してあなたちのいる東京にまだ住んで、あの煩わしさをまた知りなおしたい、と思っている。

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