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2F/当番ノート

#3

当番ノート 第34期

国立新美術館でやっていたジャコメッティ展で「ヴェネツィアの女」を観た。

ジャコメッティの彫刻はこれまでにも何度か観たけれど、よくわからなかった。鰹節みたいな色の、細長い、寡黙な彫刻。煮詰めたら良い出汁が取れそうなんてぐらいの見方しかできなかった。実存主義がどうとかいう、難解な注釈を読解できなければ正体を知れない。そういう類いの芸術だと思っていた。

「試みること、それが全てだ」

回顧展という形でジャコメッティ自身の言葉や、あの立像に至るまでの足跡を通して改めて作品を見て、その削ぎ落とされた形態と、表面に残された激しい触致が、知覚と表現の間の隔絶をひたすら縮めようとする彼の闘争の痕跡であり、結果であることを知った。

「ヴェネツィアの女」を構成する9体の女性立像は、同じ1つの骨組みから立像を作製する過程で型を取られたらしい。記憶の中の女性像と彫刻との一致を図るその過程で、互いの齟齬による棄却を免れた、9つの断片。あるいは脳裏に映る同じ女性の9つの瞬間の彫刻でもあるのかもしれない。9体それぞれに異なる形で残った苦闘の跡から、初めて彼の彫刻に情緒を感じた。
 
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「ヴェネツィアの女」は、モデルがヴェネツィアの女性であるわけでもなく、ヴェネツィアビエンナーレで展示されたことに因んで名付けられたらしい。僕もその昔、ヴェネツィアビエンナーレに行ったことがある。

その日はマルコ・ポーロ空港に降り立って、イタリア周遊のスタートと思って意気揚々ヴェネツィアの街の人混みを縫っていったのだけど、橋を越えるたびにスーツケースが重くなっていって、仕舞いに朦朧としながら息も絶え絶え辿り着いた宿で熱を計ってみたら39度あった。それでも行かねば後悔すると思って、そのまま会場のジャルディーニまで行きはしたものの、日本館の入り口で力尽きた。

どうしようもなく会場の入り口付近のベンチで寝ていたら、様々な肌の色をした人達が神妙な面持ちでこちらを見ながら通り過ぎていった。東洋人特有の不可解な行動と思われたのか、憐れみや軽蔑だったのか凝視された意図は分からないけれど、僕の方はただいたたまれずに、いっそ会場の一部と思ってもらおうと、視線を返すことなく微動だにもせずに同行者の帰りを待った。結局その後も会場の売店でサンドイッチを食べただけで、僕は1つの作品も見ること無く会場を後にした。

ただ、熱に浮かされながら歩いたヴェネツィアの街は神秘的で、狭い路地の隅まで幻想を隠しているようで美しかった。

*

さらにその昔、パリを訪ねたときも同じように、僕は高熱に浮かされていた。

ベルリンからパリに向かう前夜に突然熱が出て、なんとかやってきたパリだったけれど、その街の美しさは全く理解できなかった。

浮浪者から前を歩く紳士が恵んだばかりの30ユーロを投げつけられて、スリの親子に地下鉄の車内まで跡をつけられて、モンパルナスの丘の下で話しかけてきた黒人に早業でミサンガをつけられ金をせがまれて、一本狭い路地に入ればゴミだらけ……せっかく病を圧して登ったモンパルナスの丘から見た夕暮れにも、昼間でさえ敵意や悪意が剥き出しの街に夜が訪れる不安と、何が花の都だという失望と怒りとを、ない交ぜにした批難の目線を投げるしかなかった。

ジャコメッティは晩年、パリの美しさを描き留めるための版画集「終わりなきパリ」に取り組んでいるけれど、彼の言う美しさとは、そんな批難も飲み込んでしまうほど強いものなのか。それとも僕に向けられたような敵意や悪意さえ、その美しさの一部なのか……

*

その旅行以来なのか、ずっとそうなのか、フランス生まれやフランス育ちの音楽には、どこか距離を感じてしまう。

先の2つの旅行よりも前に、ディアボロゴムというトゥールーズのバンドの”365 Jours Ouvrables”という曲をyoutubeで聴いて、ヨーロッパに行ったら彼らの作品をレコード屋に行って探そうと思っていた。実際、海外でレコード屋に行っても勝手が分からず、限られた時間の中で獲物を発見できた試しは無くて、ディアボロゴムのアルバム”#3”は、2015年に突如再発されたお陰で手に入った。

“365 Jours Ouvrables”は、初めて聴いた当時好きだったライフ・ウィズアウト・ビルディングスという1枚のアルバムを残して消えてしまったグラスゴーのバンドと趣が似ていて気に入ったのだけど、アルバム全体はバンド然としていなくて、アイデアや実験的な要素が剥き出しのままの曲も多い。叙情より先に耳に飛び込んでくる、実験、というか芸術の営みの跡と言うべきか。やっぱりどうして、彼らも”#3″というアルバムの単位では取っ付きにくくなってしまった。

こと音楽では「実験の跡だけ見せられても分からないよ!」というのは割と普遍的な不満だとも思う。ただ、ゲンズブールよりファブリツィオ・デ・アンドレの方が好きだったり、マグマよりアレアやアルティ・エ・メスティエリの方が好きだったり、ダイトロよりラエインやラ・キエテの方が好きだったり……僕がフランスよりイタリアの音楽が好きなのは、寧ろ旅行で刷り込まれた印象なのかもしれない。

何れにしても「365日労働」なんてタイトルの曲なら、社会に出た今やいっそう、その徒労と反骨の精神を感じ取れるようにはなったけれど。

Kazuki Ueda

Kazuki Ueda

市井の音楽愛好家。
八代生まれ熊本育ち。
母方はメロン、父方はワイン。時々映画、頻繁に美術。

Reviewed by
anouta

今回ディアボロゴムというバンドを紹介してくれていますが、これはすごくカッコいいですね!この混沌とした感じ、カエターノ・ヴェローゾをどこか思い出します。そういえば連載一回目はスピネッタでしたね。ウエダさんの「好き」はどこか一貫しているような気がして、たいへんに信頼できます。

ジャック・ブレルが好きで、エチエンヌ・ダオが大大大好きな自分としては、ウエダさんのフランスへの気持ちは首肯し難いものがありますが、しかしイタリアの音楽をそもそもよく知らないのでした(今咄嗟に思い付いたのがレーベルのクランプスとマティア・バザールという...中間が無い。笑)。ただ、自分のその時の体調やモードで聴く音楽の「良し悪し」が決定してしまう、というのはよくわかるし皆あることだと思います。別れた恋人が好きだった曲を聴けなくなる、みたいな話もまあその延長ですよね。

誰かに自分の好きな音楽を教えるときに、自分の思うその音楽の良さが「音楽そのもの」なのか「思い出(補正)込み」なのかわからなくなる時があります。純度100%で前者であるのはたぶんムリで、例えば10年間家から一歩も出ないで聴いた音楽にも一歩も出ないなりの「思い出」が、良さにおそらく付随するんじゃないでしょうか。ここから「音楽は"生きている人"を介して初めて音楽となる」みたいな話に繋げたいわけですが、なにしろこの文章を書いているのは仕事中なので笑、そこまで到達できそうにありません。

この連載を通じて聴くことができた音楽の良さは、やはりこの連載を見て(ウェブ越しではありますが)思ったり感じたりしたその時の「メモリーズ」と共にあるのでしょう。

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