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2F/当番ノート

弱者の品格ー正解の見解ー

当番ノート 第34期

考えというのは、どこかに偏りがちなものだ。
口論になったり、排除したりされたりする。
程度の差こそあれ人の考えは偏る。それが良いとか悪いということではない。

社会の中では自分でえらんだ正解が、正解じゃないコトは多々あるし、
正解と確信するからこそ喧嘩になるし、生きにくくなったりする。

でも、他人がどう言おうと”これが私の正解だ”と何か芯になるものはあったほうが良い気がする。
それがなければいつまでも流されてしまうし、

”自分がないみたいじゃないか”
 
 

 
 
””自分の個性がなくなってしまうじゃないか””
 
 
 

 
 
今回考えていくのはこのこと。

生きていくときの、
正解を”えらぶ”ことの意味と無意味さ。
その上でえらんだ、私の中の正解について。
 
 

<個性か、共同体か、どちらが正解か>

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フィリピンのミンダナオ島の孤児院に滞在したとき、
小学校に遊びに行かせてもらった。
日本だったら外国人が突然教室に現れたら警備の人が来て
「職員室でまず受付を、というかあなた保護者?何しに来たの?」
と言われるだろうが、ミンダナオの先生たちは
「ハーイ!あなた日本人?いいわね。こっちへきて、みんなで写真を撮りましょうよ!」
え?いま授業中だよね?
というような感じで本当にゆるい。

いいなあ、このゆるさ。

学校のクリスマスパーティーでは、
みんなが出し物の劇やら踊りを一生懸命やっていて、なんとも可愛い。
しかし……。
それが……。
みんな……。

ド下手くそ笑(失礼)

動作を合わせる気がないし、先生からの指導もない。
踊りもめちゃくちゃ。
劇のオチもない。
小学校高学年の子どもの出し物を見ていたが、
日本の小学1年生くらいのレベルである。
ああ、これをカオスと呼ぶのか。

まぁ下手なのは国民性というか、合わせて何かやる気がないせいなのだが、
面白いのが誰か一人が目立つ場面が一つもないことだ。

習い事の習慣がないので、他の子より何か抜きん出ているものがある、という子がそもそもいないし、
彼らは自分だけが目立ちたいという気持ちがない。
共同体の中で強く守られ、愛されている子どもたちは、
一人にされると途端に逃げてしまう。
シャイ、というだけでは片付けられない理由が他にもありそうだ。
これが日本とは全然違う。
 
「だから私を見て!」
 
自分が特別でありたい、抜きん出ていたい。
それが叶わないために凶悪な子どもに成長したり、
大人になってもこじらせている人が多くいるというのに、
なぜ日本とミンダナオではこんなに違うのだろうか。
 

<個性とは何か>

小学校のとき、個性は大事だと道徳の時間教わった。
自分のポリシーを表明する機会が少なく、
表明すること自体を変な目で見られがちな日本では、
少数派(マイノリティ)の彼ら/彼女らは居心地は悪い。

しかし個性を大事にし始めると、協調するとか、一つになるのが難しくなる。
逆に協調性を大切にすると個性が犠牲にされる。
欧米の文化が入ってきて、個性を大事にすることの方が推奨されているが、
私はなーんかモヤモヤしていた。

みんなが自分の幸せを主張し始めたら、調和が崩れてくるのではないか。
でも共産主義みたいに、なんでもまとめてやろうというのも良くない。
どちらも優しい世界じゃなくなるのではないか。

ミンダナオの子どもたちの
ある意味での個性のなさ、目立たなさ、競争心のなさ、気にしなさ。

どれだけホッとして力が抜けたことか。
ああそうか、自分を意識しない人たちの攻撃的ではないところ。
誰も変えようとしないところ。
個性を超えているところ。
 
これか!
これなんだ!
 
それが私の岐路のポイントとなった。

<オーディエンスは変わらない>

個性を主張する時、周囲の理解がないと辛い。
だから周囲の理解を得るため、様々なジャンルにおいてアクティビストたちが啓蒙している。
そうして時代は少しずつ変わって来た。
私も様々な性に寛容な社会を目指すグループの一員として、実名顔出しの体当たり番組を制作しているが、
そこで思うのは当事者、当事者の気持ちになれる人以外は変われない、
つまりオーディエンスは変わらないということだ。

悩みのない人は誰かが困っていても、肌感覚が遠くて共感できない。
興味もない。
だからこそ私たちは声を大にして活動し、
「まず知ってもらう」ところからスタートする。

でもなんというか、「興味関心がない」権利もあるし、
「特に何も行動しない、その代わりに干渉もしない」というクラスタもいて良い。
力づくでさせたことなんて、恨みにはなるが、良いことは起こらない。

個人が幸福に暮らすために大切なのは、
個性を主張するとき、
主張と同じくらい「周りのどんな意見も気にしない」という強さだ。

気にしない強さを磨く方が、
「私を認めて!」と社会に訴えるよりよっぽど合理的なのだ。
オーディエンスは変わらない。
ミンダナオの「気にしない精神」もとい自分に甘く、他人にも甘い考えは
とってもとっても気に入って、離れられなくなったのだった。

<正解の持ち方>

生きていくときの、
正解を”えらぶ”ことの意味とはなんだろう。
海を社会と例えるなら、正解は流木かもしれない。

海といってもいろんな海があり、
流木に捕まって助かる時もあれば
流木もろとも飲み込まれる場所もある。

流木アートを売って稼げる地域もあるし、
船になるかもしれない。
火を起こすこともできるかもしれない。
海は変わるが、流木は使いようだ。

使えない時も、無意味な時もある。
そんな時はさっさと捨て去ってしまえばよい。

私の中の正解を持つことに、どんな意味があるだろう。
うん、そうだ。
意味なんてねえな。

かりそめの身体に、なんとなくインストールされた意見が絶対的であることはない。
だから正解は持たないで。
常に柔らかく、自分に甘く、他人に甘く。

自分とは幻想的なものだ。
今生きることにしがみつこう。

たかだ まなみ

たかだ まなみ

煩悩による煩悩のための煩悩の筆跡。
結婚や明るい家庭という幻想に囚われて、時間とお金を浪費中。

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