ジョン・ロールズという政治哲学者は、ソクラテスを引用しながら人間の動機の在り方について説明した。
人間は、一般に自分の能力を行使することを楽しむ。このとき、その能力がより高次で複雑になればなるほど、その楽しみが大きくなる。
でも、どんな人間でも、その潜在的な能力や成功は、一人の人生の中で表現できるものをはるかに超えている。大きな楽しみをもたらすような高次で複雑な活動のうち、一人の人間がすべてをやり尽くすことはできない。
こういう、残念かつ当たり前な事実はあるものの、人間は自分の能力に限定された楽しみ以上のものをまったく得られないわけではない。だって、「よく訓練された才能を他者が行使するのを目撃する時、こうした才能の発揮は、私たちに楽しみをもたらす」から(ロールズ『正義論』)。
これは多くの人にとって、実感とぴったり合うんじゃないかと思う。
どんなジャンルであれ、よく訓練された才能を他者が行使するのを見ると、単に曲芸を見せられて、「すげえな」と思うだけでなくて、もう少し複雑な成分が脳みそを満たすような感覚がある。
よく訓練された才能を行使するには、やっぱりそれに到達するまでに血のにじむ努力が要求されているわけで、これにかけてきた人生があるのかと思うと、すげえな、と同時に、なんというか、ありがとうございます、と思うのである。今見せられているものの後ろに、過ぎた時間が見え隠れする。その時間の厚みに、敬服させられる。同時に、それにそれだけの時間をかける世界があるのね、と、この世の奥行に思いを馳せて感動する。
よく訓練された才能には色々あるが、スポーツもこの一つだと思う。
私は4年間、大学のボート部にマネージャーとして所属していた。
ボートという競技は、1人乗りから8人乗りまでいくつか種類があるのだけど、勝敗の決め方はというと、2000メートルをいかに速く漕ぐかというシンプルなレース競技だ。球技のように動きの選択肢がほとんど無限にあるような複雑さはない。陸上競技でいうと「中距離」のジャンルに分類される運動の種類で、実際のレースは風の向きや艇種にもよるが、6分弱から8分くらい。
その数分ぽっきりのために、選手は週に6日、一日あたり120分くらい漕ぐ。それにプラスして筋トレのような陸上トレーニングもする。傍目に見ていてもちょっと気が遠くなるような過酷さだ。
だから、ボートのレースは、何回見ても「私たちに楽しみをもたらす」ものだ。これにそれだけの時間をかけてくれてありがたい(感謝の意味というよりは貴重だという意味で)、と思う。
ボート部に限らず、大学の運動部というのは生活を占領しようとするモーメントが最も大きい営みだと思う。選手は特に、食事・睡眠の管理までそれが覆いつくす。練習がないという意味でのオフは当然あるが、スポーツというのはそもそも肉体を使う営為なので、オフ中であっても肉体から精神が離脱でもしない限り、選手という属性から完全にほどかれることはない。
しかも、プロのスポーツ選手と違って、活動期間が4年と短い期間に絞られているので、サステナブルにアスリートたるために一旦完全にスイッチを切る、というタイミングも限られている。要は、決して一息では続かないのだけど、えっちらおっちら休憩するには時間が足りない。4年間というのは、息継ぎをせずに突っ走れてしまうし、突っ走れてしまうからには突っ走ることが推奨されるギリギリのスパンなのだ。
以前にも書いたように、私は、学校生活でも、受験勉強でも、小さいころから何か一つのことに生活を占領されるのが生理的に無理だったので、隙間に時間を見つけては、非行少年たちと遊んだり、音楽家たちの中に混ぜてもらったりして、その状態を解消していた。
ボート部は、私の性質からすると生理的に一番無理な活動形態のはずなのだけど、引退してしばらく経って振り返ると、かなり私のタチに合っていたし、私自身楽しんでいたなと思う。
ボート部が生活を覆いつくせば覆いつくすほど、「抜き甲斐」というか、自分に対して「裏切り甲斐」があった。部活に真剣に打ち込めば打ち込むほど、オフのときに部活以外のことに従事する瞬間の快感が大きくなる。
オフを使って、何本もお芝居やバレエを見に行った。観劇は、まさに「よく訓練された才能の行使の目撃」だったが、その才能はボート部で探求されているものとは全然違う。かすりもしない。
劇場で段々と知り合いが増えて、舞台の打ち上げのようなものにもいくつか参加させてもらうこともあった。
つい数時間前まで、寒い荒川の上でコーチング用のモーターボートを運転していたのに、今私はあの世界的ダンサーである田中泯さんにワインを注いでる!そういう自己分裂にクラクラした。
世界には様々な種類のよく訓練された才能がある。ある種類の才能の開拓に時間を割けば割くほど、それとは別の才能を目撃するときの興奮が大きくなった。