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2F/当番ノート

小さな確かな場所/地域の縮図—ささいなことだけれど

当番ノート 第44期

僕の地元は愛知の長久手というまちです。
生まれてから大学までの19年間をここで過ごしました。
郊外のベッドタウンですが、結構強い愛着があります。

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愛着を育んだ場所の一つが、道場です。

小学校入学直前から高校3年生まで通った、空手の道場。
多いときには、大人から子どもまでだいたい100人くらいが通っていました。

幼なじみが通っていたことがきっかけで始めたものの、小学校高学年くらいまでは、いつもやめたいやめたいと思っていました。空手って、小さい子どもにはなかなか面白さが分からないんですよね。その割に練習は厳しい。冬に板間で練習するときの足の冷たさなんか・・・。
しかし「黒帯取ったらやめていい(=黒帯取るまでは続けなさい)」という母の言いつけもあり、ともかく続けて、小学6年で黒帯(初段)を取得。すると、あれほど嫌だった空手がいつの間にか好きになっていました。中学高校と続けて、大会でそれなりの成績も残しました。

そうして12年間、お世話になった道場。
そこは、とにかく様々な関係がある場所でした。
同級生、先輩後輩、大人(主には仲間のお父さんお母さん)、そして師範。
(他にも様々な関係がありました。)

同級生は、本当に重要な存在でした。
小学校の途中でやめてしまう子が多いのですが(部活が忙しくなったり遊ぶ時間がほしくなったりするためです)、僕の世代は中学、さらには高校まで同級の仲間がいました。
小学生の時は、遊ぶにしても、練習をふざけるにしても、同級生がいないとつまらない。熱が入りだした小学校高学年以降は、心強い仲間にしてなんとしても負けたくないライバル。
高校まで続けた/続けられたのは間違いなく彼らのおかげでした。

同級生だけでなく、自分より上の世代・下の世代もほぼまんべんなくいました。
通い出して間もない頃には、数個上の兄さん姉さんから雲の上の存在の高校生や大学生まで。逆に自分が高校の時には、1個下から幼稚園までいるような状況。
いいところはたくさんあったのですが、一つ挙げるとすれば責任感が芽生えたことだったと思います。
最初は、とにかく先輩からもらってばっかりなわけです。練習でも練習以外でも、なにかと面倒を見てもらいました。先輩はあこがれであり、鬼コーチであり、遊びの達人であり、誇らしい人であり、とにかく頼れる存在でした。
そして年齢が上がり、先輩が少なくなってくると、徐々に先輩意識が芽生えてくる。
それは、直接後輩に向かう意識というよりは、先輩に対する意識だったように思います。自分が先輩たちにしてもらったこと、先輩たちが守ってきた道場の雰囲気やレベルを、ちゃんと守り継いでいきたい。その一心で後輩を指導していたし、誰よりも真剣に練習しようと思っていました。でもそれができたのは、たくさんの後輩がいてくれたからです。
高校3年の夏、久々に帰ってきた大先輩に「道場を守ってきてくれてありがとな」と言われたのは本当に嬉しかったなあ。

通っていた道場にはまた、最初自分の子どもだけだったけれど、途中から自分もやってみようと思って空手を始めたお父さんお母さんが、結構たくさんいました。
そういう大人(仲間のお父さんお母さん)がどういう存在だったのかは、今になって少しずつ自覚しています。
その方々が身近にいたおかげで、今その年齢(年齢差)の人たちと苦なく接することができていたり。ゆる~く自分のペース空手を楽しんでいたその姿が、理想の大人像の一つになっていたり。その大人の方々が道場の運営も支えてくれていたのですが、それがいかにありがたいことだったのかも。

そして、師範です。
師範は本当にすごい方でした。
指導の的確さはもちろんなのですが、それ以上に、道場に通う一人ひとりに対してとても真剣な方でした。決して人を見捨てない。ちゃんと叱ってくれるし、ちゃんと褒めてくれる。話も聞いてくれる。誰に対してもそうでした。
小学生の時は、とにかく怖かった。でも徐々にその真剣さを実感して、気づいたら大好きになっていました。
今でも心底尊敬しています。


懐かしさに浸りながらここまで書いてしまいました。

僕にとって、その道場は地域の縮図のような場所だったのだと思います。

週に3回2時間ほど、時間・空間をともにし関わり合う。
いろんな世代の人、いろんな立場の人がいる。それだけ様々な関係がある。
その場所がその場所であることを、それぞれの立場から支える。
最初は元気のかたまりとして。少しずつ、面倒を見る立場として。
その場所を離れても、関係は切れずに続いていく。
(そういう場所のことを「ふるさと」や「ホーム」というのでしょう。)

「その道場=地域」というわけではありません。
一般に「地域」というと、ある空間にいる人全員が参加する(できる)集まりをイメージすると思います。しかし道場は、あくまである特定の人たちからなる集まりです。全員は参加しないし、参加したいとなっても難しい。住んでいるところも、長久手の人がいれば名古屋など近隣の人もいる。
しかし道場には、世代も立場も様々な人がいた。しかも、およそ近くに住んでいた。だから僕にとってそこは、近くに住む様々な人たちが関わり合ってなにかしら自分たちにとって意味のあることを行うという点では、まぎれもなく地域でした。

僕には、ある空間の全員が参加する/できる集まりとしての「地域」はありませんでした。
でも地域の縮図のような場所は確かにあった。
そのような場所があったお陰で、長久手というまち(行政区域としての長久手)にも、ある程度確かなリアリティのある愛着をもてている。そういうふうに理解しています。


面白いなと思うのは、この道場が本来、あくまで個人的な、プライベートな場所だということです。

師範を中心に、この道場で空手をしたいという人が集まり、練習し、運営している場所。
ある限られた数の人たちが、自分たちのために続けている場所。
そうしてちゃんと自分たちにとって意味ある大切なものになっている場所。

こういう場所を、小さな確かな場所、と呼んでみたいと思います。

その道場は、あくまで個人的な、ある特定の人たちのためのプライベートな場所としての、小さな確かな場所でした。
でもそれは、いろんな人に開かれてもいた。
そもそも開かれていなければ僕もいられなかったわけですが(笑)、開かれていたからいろんな人たちが集まっていた。
ゆるやかなペースでこんにちはとさようならを繰り返しながら、26年続いてきた。
結果的に、世代も立場も様々な人たちが関わり合う、地域の縮図のような場所にもなっていた。
個人的な場所が、ある種のパブリックな性格、それもかなり程度の高いパブリックさをもっていた。


現代では、「地域」のリアリティはますます希薄になる傾向にあると思います。
あるところに住んでいるとしても、近くに住む人と関わり合う機会がなかったり、機会があったとしても参加できなかったり(しなかったり)。そういう状況の中で、ある種のパブリックな空間をつくりたい、「地域」のリアリティを高めたい/高める必要があるとなったとき、いきなり「地域」へ向かうのは相当厳しいというか、無理があるように思います。
それよりも、一部の人からなる集まりではあっても、そこを確かな場所にしていく方が、実現可能性はおそらく高い。確かにパブリックな空間をつくりたいと思う人にとっては、そのための努力がちゃんと報われる可能性が高い。

小さな確かな場所がそうあるためには、おそらく、扉はいつも開けておく必要がある。
全開でなくていいし、むしろ全開は避けた方がいい。
でも、扉を開けておくことが、なにより既にそこにいる人たちにとって必要だと思います。
新しい出会いがないとつまらないし、難しくなったときに出られないのは苦しい。
でもそうしておけば、小さな確かな場所は、時に地域の縮図のような場所にもなりうる。
別にそれが目的ではなくても、そうなることは、なんだか豊かなことのような気がする。

現代あるいはこれからの社会で、「地域」のリアリティが生まれたり高まったりすることがあるとしたら、いちばん現実的で苦しくない仕方は、こんな感じなのかなと思います。そういう意味で、小さな確かな場所や、それを支える人たちは、とってもすごいし素敵だと、僕は思います。


改めて思うのは、師範のことです。
師範は道場を立ち上げるとき、「会員が自分一人になっても続ける」と腹をくくっていたと、昨年聞きました。フルタイムの仕事をこなしながら、家族のこともやりながら、週3回の練習や大会などの行事もフルでコミットする。そういう師範がいなければ、僕の通っていた道場は存在しえなかった。道場が師範の力だけで成り立っていたわけではないとしても、やっぱりその人なしにはありえなかった。

ある人がいなければ成り立たないというのは、一種のもろさです。でも、確かな場所って、いつももろさと隣り合わせだと思うんです。だって、人間自体が不確かな存在なのだから。人間がつくる場所がもろさをもっていないとしたら、人間が何らかの仕方で外から過度に制御されている以外に原因はありません。人間がちゃんと人間としてあれば、不確かな人間が不確かなまま存在していれば、人間がつくる場所も当然一種のもろさをもつものになる。だから永遠はないし、時には途切れさせるという選択が積極的になされる。それが、確かな場所の自然な姿だと思います。

そのような小さな確かな場所/地域の縮図の原体験、つきつめれば師範の存在なしには、大学に残ってまで生き生きした空間について考えている今の僕も、ありえなかったと思います。

今その道場は、師範の息子さん(大先輩)が代表を継いで新たな時代へ進み始めています。
どういう形でかはまだ分かりませんが、今後も恩を返していきたいです。

—–余談—–
今回取り上げてきた道場は、ある特定の建物などが自分たち専用の道場であった、というものではありませんでした。
練習は、長久手にある二つの体育館を借りて行っていました。
だから、ここでの道場は物理的な空間というよりは、人が行為することにより立ち上がる空間であると言えます。
それでも、長久手にある体育館、同じ二つの体育館が練習場所になっていたという点では、道場はなんらかの物理的な安定性ももっていたといえそうです。
僕が通っていた道場のリアリティは、どちらかといえば人の行為により支えられていたと思います。
でも、物理的なリアリティも確かにあった。
このわりきれない感じが、空間について考えることの難しさであり面白さの一つな気がします。

清水 健太

清水 健太

駆け出し研究者。
生き生きとした空間について考えています。

Reviewed by
キタムラ レオナ

生まれ育った地域の縮図のような存在だった、故郷にあった道場。

12年間通い続け、歳を重ねる毎に関わる立場も変わってきた。

そして道場の師範抜きには存在し得ないと一種の"もろさ"が道場の存在を特殊な物にし、
人々が支え合う生きた空間となっていく。

さて、自分にはそのような空間があるだろうか。

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