早いもので、連載も第3回です。
今回は、よく行くラーメン屋さんで考えたことについて。
ラーメンについてではなく、自由について。
突然仰々しいテーマですが、軽い気持ちでお読みいただけたら幸いです。
水曜の昼下がり。いつものように暖簾をくぐり、食券を買って、着席。
すると、聞き覚えのあるイントロが。このお店のBGMはいつもラジオです。
曲は土岐麻子の「STRIPE」。
1年半前にWebマガジンの記事で知って、しばらくYouTubeでヘビーローテーションしていました。聞き始めたのは晩秋でしたが、初夏が現れてくるような心地よさにはまりました。曲の最後、バスドラムの4つ打ちが抜けてから「Hello, Mr.Summertime……」のフレーズが2回続くのですが、その1回目のラスト、「Stripe forever」の「フォーエーヴァッ」、「ヴァッ」の切れ方が最高に好きで、この部分を聴きたいがために聴いているようなところもあります。
ちょうど日差し暖かな陽気だったので、余計にテンションが上がりました。ちょっといい気分になりながら、この連載のことを考えはじめました。
ふと思い出したのは「納会のあとのドッジボール」のことでした。
考えている途中に着丼したので、以降はラーメンをすすりながら。
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前回の記事で取り上げましたが、僕は子どものころ空手の道場に通っていました。
その道場では、いつも年末に納会がありました。普段練習している体育館に机と椅子を出して、お寿司をいただきながら歓談したり、一年の振り返りをひとりずつ話したりという行事でした。
師範のお話で会はお開きとなり、みんなで机や椅子を片づけます。片づけが終わっても、体育館を出なければいけない時間までにはいつも多少の余裕がありました。
その時間にいつも、みんなでドッジボールをしました。子どもだけで勝手にやって、でも時には師範や他の大人も加わったりして。ボールはいつも誰かしらが持ってきていました。
だいたい20分前後くらいの短い時間でしたが、それは最高に楽しいドッジボールでした。
特別なしかけやルールなど全くないただのドッジボールなのですが、とにかく楽しかった。このドッジボールが楽しみで、最後の師範のお話がなかなか終わらないと不安でそわそわしていました。小学生のときなんか露骨に「早く片づけてドッジボールしたいです」オーラを出していました。汗
ドッジボールは、なにが起こっても盛り上がりました。うまく投げても、うまく避けても、ハプニングやミスが起こっても。僕は投げるのも取るのも下手だったので、ひたすら逃げ回っていました。そうして活躍できなくても、楽しかった。
いつも、ずっとドッジボールをしていたい気持ちでした。しかしあっという間に終わりはやってきて、爽やかさと寂しさが入り混じる。それでも家に着くころにはどちらも忘れて、いつものように眠りにつく。そして年明けからはまた、厳しい練習がいつものように始まるのでした。
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どうしてあんなに楽しかったんだろうか。
少なくとも二つのポイントがあったのだと思います。
一つは日常、それもなかなか厳しい日常からの、つかの間の解放だったこと。
前回も書きましたが、空手の練習は厳しいものでした。子どもの自分には、楽しさがなかなか分からなかった。
そのような空手の時間のなかで、まずもって納会が異質なひとときだったわけですが(いつもの体育館に私服でお寿司!)、ドッジボールはそのなかでもさらに異質なひとときでした。厳しい時間の前でもなく、後でもなく、ただ中にあるからこその、解放されたひととき。ドッジボールの楽しさは、その千倍近い日常の時間があったからこそだったと思います。
もう一つは、そのような解放が、自分が思い通りにできないところからおとずれていたこと。
例えば、いつも練習している仲間と「この日にドッジボールやろうぜ」と企画したとしても、あんなに楽しい時間にはならなかったと思います。あるいは、納会のプログラムにドッジボールがあらかじめ組み込まれていたとしても、楽しさは幾分減っていた気がします。もちろん、ドッジボールができると期待していたし、実際に毎回行われたし、師範も子どもたちがドッジボールを楽しみにしていることは分かっていました。それでも、あくまでおまけとして、納会のあとの余った時間に、その限られた時間の中でやるものだった。日常という制約の中にあって、このときだけはなぜか自然に出現する、制約はありながらも解放された時間。その自然さも、おそらく重要でした。
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そんなことを考えながらラーメンを食べ進めていると、ラジオからはL’Arc~en~Cielの「NEO UNIVERSE」が。二つ目のサビでhydeが「鳥のように自由に」と歌いました。
あれ?
確かに、人間にしてみれば鳥は自由であるように見える。鳥は地べたを離れてお空を飛べる。
でも、鳥は飛ぶことに自由を感じてはいないはずだ。だって、鳥にとって飛べることは当たり前だから。二足が満足な人が、歩いている時に自由を感じないのと同じように。
できなかったことができた。
なかなかできないことができた。
自由らしい自由って、そういう時にこそ感じられるものな気がします。
そして、そのような自由らしい自由が感じられるひととき、できなかったことやなかなかできないことができるひとときは、思い通りにはおとずれない。思い通りにできるのだとしたら、それはもはや当たり前だから自由を感じられない。
納会のあとのドッジボールは、実に自由らしい自由が感じられるひとときだった。だからあんなに楽しかった。そう理解できるんだなと思いました。
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自由をこのようなものだと捉えると、自由のある場所というのは、ある種の不自由さを伴う日常のルーティーンがあって、でもときどき不意に解放されることもある、そのような場所であると考えることができます。通っていた道場はこのような意味で、確かに自由のある場所でした。その象徴的なひとときが、納会のあとのドッジボールでした。
場所とはやや違いますが、ラジオも、そのような自由のある装置なのだと気づきました。お気に入りの曲や、初めてだけど「なんかいいな」と思える曲が流れる時の、あの気分の上がり方。「STRIPE」は自分でYouTubeで再生してもやっぱりいい曲なのですが(ラーメン屋さんを出たあと10回くらい聴きました)、気分の上がり方はやっぱり違う。
僕は普段はほとんどラジオを聞きません。でも、お気に入りの曲がラジオから流れてくるあの感じは、やはりとても好きです。たとえ自分の手元に音源があり、いつでも再生できる状況だとしてもそうです。
思わぬところで思いどおりになることは、どうやら、思ったとおりに思いどおりになること以上に嬉しく、自由なことのようです。
でも、諸々を思いどおりにしたい自分も確かにいます。お気に入りの曲はPCに入っていて、聴きたい時に聴いています。それはそれで幸せなことです。
別に、どちらもいいのだと思います。どっちが真正だとか比べられるものではない。
でも僕は、やっぱりラジオも楽しめるような人になりたい。あるいは自分でラジオをかけるのは気が進まなくてできなくても、そのラーメン屋さんのように、意図せずラジオがかかるような状況が身の回りにあるようにしたい。
ラジオではお気に入りでない曲もたくさん流れるし、パーソナリティのおしゃべりもあるし、広告も流れる。そんなある種の不自由さと共存しながら、不意におとずれる嬉しさをしみじみ味わう。嬉しさはお気に入りの曲だけでなく、おしゃべりや広告がもたらしてくれることもあるかもしれない。
そのような場所がある方が、やっぱりいい。
そんな風に思った、昼下がりのラーメン屋さんでした。
ごちそうさまでした。今日もお相手は清水健太でした。
——余談——
このラーメン屋さんのラーメンは、いつ行っても美味しいです。だから行けばいつも幸せな気持ちになれます。
このような幸せさもまた、とても魅力的です。出汁の効いた味噌汁を食べるときとか、大きなお風呂に浸かるときとか。
このような幸せは自由との対比で、「安心」や「安定」と関連づけて考えることができるのではと思っています。このことについては、また別の機会に考えてみたいと思います。