嵐のような雨風の火曜日から一転、爽快な快晴となった水曜日。
朝、いつものように大学の門を通り抜けると、右手に賑やかな雰囲気がある。
近所の保育園児と保育士さんが、のびのびと戯れていた。10数人の園児と、3人くらいの保育士さん。何をしているとは形容しがたいが、とても穏やかな場であることは確かだった。
穏やかな気持ちを分けてもらい、ちょっといい気分で自分の場所へと向かった。
お昼ご飯を調達しに出かけた昼下がり、今度はキャンパス内のベンチで子連れのお母さんが休んでいた。ベビーカーの中を気づかれないくらいにのぞき見ると、案の定赤ちゃんが安らかに眠っていた。二人に重なる樹木の陰がいっそう優しく見えた。
木陰と比べて、高層建築物がつくる陰はなぜ固く冷たいのだろう。陰の違いを気づかせてくれるような光景がキャンパス内に存在する幸せに、今更ながら気がついた。
その後、朝に保育園児たちが遊んでいた場所まで来た。
キャンパスの片隅にある、活動の盲点。
ある程度まとまった大きさのスペースが、なぜかほとんど利用されずにある。
この場所には脇にいくつかのベンチがあり、時々利用している。
なぜ意識せずとも好んで利用していたのかが、少しわかった。
そしてその場所が保育園児たちに利用される状況を、とても嬉しく思った。
*
大学のキャンパスは、基本的には閉じた場所としてある。
キャンパスとは大学に関係する人が利用する場所のことであるから、ある意味当然だ。道路(公道)や公園とは違う。
だが僕が通う大学のキャンパスは、大学に関係しない人にも利用されている。保育園児や子連れのお母さん以外にも、散歩する老夫婦や修学旅行の中高生などはもはや日常の光景だ。
キャンパスは、閉じていそうだけど開いている。
このことは、僕が通う大学については比較的理解しやすい。
一般の人も入場可能な博物館が三つもある。
キャンパスツアーが制度化されている。
毎週日曜日にも門が開けられる、等々。
いずれもがキャンパスが開いていることに結びついているし、要因は他にも考えることができるだろう。
そうして開いていることは、キャンパスをいっそう生き生きした空間にしている。大学に関係しない人がキャンパスを利用できる状況であることと、実際に利用していること、そのどちらもが重要なのだと思う。
だがもっと興味深いと思うのは、
開いているけど開きすぎていない、というところだ。
開いているから、キャンパスはいっそう生き生きしている。
だが開きすぎていないから、キャンパスがあくまでキャンパスであり続けることもできている。
そのような微妙なバランスを成り立たせている要因として、例えば次の事柄が挙げられる。
ベンチや木陰はあっても、公園のような広場や遊具はない。できることは散歩や休憩、歓談や読書くらいのもの。
三つの博物館も、それほど集客力があるわけではない。
昼前から夕方にかけて、とりわけ休み時間はキャンパス内を歩く学生が多く慌ただしい、等々。
訪れる人を制御する仕組みがあることも一因ではある。
24時間警備員が監視巡回している。
夜は門が締め切られる。その門には「開きすぎ」が原因で設置されたという過去もある。
けれど、基本的には誰でも入れる空間になっている。
それでいて、訪れる人の振る舞いや数がキャンパスを脅かす状況にもなっていない。
開きすぎていない状況が、境界を閉ざさずに実現されている。それなりの規模のキャンパスとしては、十分に開かれていると言えると僕は思う。
この大学に限られたこととは想像しないけれど、自分が通う大学のキャンパスが少なくともそうであることは、とても嬉しい。
閉じていそうだけど開いている、開いているけど開きすぎていない。
空間がこのようなあり方であることは、現代ではますます当たり前でなくなっていると思う。
誰かの場所は、ますます安易に訪れられるようになっている。その場所をどうやって知り、どういう機会に訪れ、どういう過ごし方をするのか。その全てが、安易な来訪となる方向へ変わり続けている気がする。人の変化としてよりも、人を取り巻く状況の変化として、そのような趨勢があると思う。
安易な来訪が増えれば、それだけ誰かの場所に負荷がかかることになる。過度な負荷に対して、その場所は対処せざるをえない。開いたままで密度の希薄化を受け入れる、あるいは境界を閉ざして密度を守る。いずれにせよ変質は避けられない。安易な来訪を前提に、密度がそもそも希薄な場所も増えている。
社会に対する批判が論旨ではないので、この話はここまで。
要するに言いたいのは、こういう現代にあって、自分が通う大学の現在の状況はより一層嬉しいということだ。
この先もこうであってほしいと切に思う。
*
生き生きした空間は、基本的には閉じているのだと思う。
ある一定の人たちが、不確かなままに関わり合いつくりあげる場所。誰かにとっての自分の空間。
規模は様々でありうるけれど、関係する人が不特定多数ではないという意味で、閉じている。だからこそ、その場所ならではのあり方になる。
しかし、この連載中にも幾度か触れたように、生き生きした空間は開いているはずだ。開いていなければ、生き生きとあることはできない。
そして今回注目したのは、開いているけど開きすぎていない、という側面だった。開きすぎていないからこそ、その場所はその場所であり続けながら、少しずつ変化もしながら、生き生きした空間であり続けることができる。
心理学には、知覚が「図」と「地」で成り立つという考え方がある。
ある対象がひとまとまりの形として認識されるとき、その部分のことを「図」とするなら、その認識は「図」の周りにあって認識されない「地」との関係においてのみ成り立つ、という考え方だ。有名な「ルビンの壺」は、壺と顔どちらも「図」になりえ、どちらかが「図」になるときもう一方は「地」となり認識されないが、それでも「地」なしには「図」も認識されえない、ということを示している。
「図」と「地」という視点を比喩的に用いて生き生きした空間を考えた場合、まず「図」となるのは、その空間の「閉じている」側面だと思う。どのような人たちが、どのようにつくりあげている場所なのか。どういう部分がその場所ならではのあり方なのか。その部分に目は行くし、見えやすい。
このとき「地」となるのは、その空間の「開いている」側面だ。その空間が外からの影響とどのように関係しているのか。「閉じている」側面と違って、「開いている」側面はある程度時間をかけないと見えてこない。見えにくいから、普段はほとんど省みられない。
「地」であった「開いている」側面に光を当てれば、「図」である「閉じている」側面のダイナミックな様相が見えてくる。生き生きした空間が静的な実体ではなく、動的な流れであることがわかってくる。
次に、今度は「開いている」側面を「図」として見た場合、「地」となるのは、それが開いているけど「開きすぎていない」側面だと思う。
「開きすぎていない」側面に光を当てれば、「開いている」ことの驚きが見えてくる。動的な流れが、それでも一定のかたちを保ち続けていることの不思議さが分かってくる。
どのようにして、外からの影響が、それと折り合うことが可能な程度になっているのか。「開いている」側面を「図」として見る場合には、ある空間に外から及ぼされる作用のうち、空間に影響する部分にだけ光が当たる。だが「開きすぎていない」側面を「図」として見る場合には、ある空間と外との関係の総体に目を向けることになる。
このように、「図」のみならず、「地」と、「地」の「地」にまで光を当てることで、生き生きした空間が生き生きとあることが、ようやくわかってくる。要するに、生き生きした空間の「地」の「地」まで照らし出すことが、生き生きした空間について考えることである。
それが、この2ヶ月間自分なりに言葉を尽くして行き着いた、現在の僕の理解だ。
「図」と「地」の関係は空間の閉じる/開く以外にも当てはめられる。
例えば、日常があるから非日常の喜びがあり、しかし非日常が限定的であるからこそ日常が日常であり続けられること。
あるいは、他者と関わるから自分の喜びがあり、しかし他者と関わることは自分をちゃんと守れているからこそ可能であること。
「地」の「地」まで照らし出すことで、それがどのようなものなのかがようやく分かってくる。
非日常の喜びも自分の喜びも、そのようなものではないかと思う。
そして、そうして解像度を上げていった先に見えてくるものは、いつもささいなことの重なり合いでしかないと、根拠はないが確信している。
短い間ですがどうもありがとうございました。
またどこかでお目にかかれたら幸いです。